幸せである事。
人生において、かなり高い優先順位にあるはず。
幸せのために、勉強をする。
幸せのために、結婚をする。
幸せのために、遊ぶ。
お金だって同じのはず。
幸せのためにお金を稼ぐ。
実際、
「お金があっても幸せじゃなかったら意味がない」
という言葉には、多くの人が共感する。
しかし、
「ずっと幸せだったら、お金がなくてもいいか?」
と聞かれると心がザワッとして、
なかなか共感できないはず。
住宅ローンに追われて、家族の時間が取れなくなったり、
やりたくもない仕事に追われて、イライラを撒き散らしたり。
実際、お金儲けのために、
自分の幸せを疎かにしてしまう人は多い。
幸せのための1つのツールでしかないお金に、
なぜ人は振り回されてしまうのだろうか?
心のままに行動する子供達は
大人の中にあるお金に対する固定概念に気が付かせてくれる。
値段が安いか高いかなんて気にせずに、
今の自分が欲しいかどうかで動く。
将来の不安なんてなくて、
明日以降の事なんて考えずに、
今を全力で楽しむ。
それが大人になると、
将来の事を考えすぎて、
お金・時間を心のままに使えなくなる。
それが悪い事とは言えないけれど、
少なくとも子供達は
お金よりも今の幸せを自然に選ぶ。
そう思うと、
幸せを追求できない要因は
将来の不安のような気がする。
人の宿命である死。
「もし死がなければすべての不安はなくなる」
と言っている人がいたけれど、
仕事がなくても、
お金がなくても、
死なないとわかっていれば、
別にどうって事はない。
病気になっても、
たとえ足がなくなっても、
痛みさえないまま再生するとしたら、
何も怖くなくなる。
「将来の不安≒死の不安」
その解消のために、
人はお金に依存してしまうような気がする。
お金の不安≒将来の不安≒死への不安。
それらを解消する1つの手段は、
お金以上に、死ぬ事以上に、
絶対的な大切なものを作る事。
そうすれば、
それらの執着を薄める事ができる。
例えば、武士道。
武士道の世界観は、死を覚悟する事。
「美しく死ぬ事=美しく生きる事」
死ぬ事以上に、美しい生き方を大切にする事で、
死にありふれた時代の中でも、
死の不安に囚われずにいられた。
絶対神を信じる宗教にも似たものがある。
目に見えないもの・変わらない教えを信じる事で、
その結果として、お金や死に対する執着が薄れる。
長く続く会社の経営理念や、
創業者の想いもある意味似ているかもしれない。
もし、目に見えるものや、
生身の人を信じてしまうと、
欲望に振り回されて言う事が変化したり、
年とともにボケてしまったりして不安定になりがち。
そう考えると、武士道(武道)も、宗教も、職人的な仕事も、
とてもうまくできているような気がする。
実際、お金に振り回されずに、
自分らしく幸せを追求している人に話を聞くと、
お金以上に大切な何かを失った(失いそうになった)経験をしている人が多い。
会社を倒産させた事があったり、
大切な社員・家族と離れ離れになったり、
病気で死にそうになった事があったり。
何かあったとしても、
「あの経験に比べたら全然マシ」
と思えるからこそ、
ネジが外れたようにチャレンジできるようになる。
不幸は幸せを感じるためのスパイス。
そんな不幸を経験するのもいいけれど、
それを経験しなくてもできるようになった方がいい。
その1つの手段として、
武士道(武道)や宗教や仕事が生まれたんじゃないかと思うと、
なんだかとても優しい気持ちになれる。
やり方とあり方。
やり方を求める人は多いけれど、
やり方がわかったって、
あり方が定まっていなければ、
結局行動できないからあまり意味がない。
あり方がベースにあってこそのやり方。
お金と幸せも似たような関係性かもしれない。
不安をお金で解消する方法もある。
でもそれはもしかしたら、
お金に依存しているだけ?
やり方に注目しすぎているだけ?
お金は自分の想いを測るわかりやすいツール。
どうありたいのか?
どんな理想を目指すのか?
どんな道を進みたいのか?
それがあってこその手段。お金。
回り道に見えるかもしれないけれど、
お金の不安をお金儲けで解消しようとするのではなく、
その奥にある、将来の不安・死への不安を見つめながら、
ベースとなるあり方を固めていく事が、
幸せへの近道なのかもしれない。