「泣きっ面に蜂」

苦しい状況に陥った時ほど、

社会はとても冷たくて理不尽に思えるかもしれない。

 

苦しい時ほど人の力が必要なのに、

将来性・メリットがないなどの理由で

仲間だと思っていた人が離れていく。

 

実績を出すためにお金が必要なのに、

「実績がないからお金は出せない」

と言われる。

 

離れていった人と仲直りしたくて

勇気を出して声をかけても、

話さえ聞いてもらえず余計に嫌われる。

 

一度悪循環にハマると、

どん底まで突き落とされるように

社会はできているんじゃないかとさえ思える。

 

でもこれは、

社会人特有の現象ではなくて、

学生時代からそうだったはず。

 

例えば勉強。

できる人ほど先生の話を理解できて、

勉強が好きになり成績が良くなる。

 

できない人ほど先生の話を理解できずに、

勉強が嫌いになって成績が悪くなる。

 

得意な事はさらに得意になり、

苦手な事はさらに苦手になっていく。

 

部活だって

下手な人ほど、

実践型の練習や試合に出られなくて、

上手な人との実力の差がドンドン開いていく。

 

クラスメイトとの人間関係も同じ。

 

人付き合いが苦手な人ほど、

人と話さなくなって、学校が嫌いになって、

さらに人付き合いが苦手になる。

 

「泣きっ面に蜂」なのは、

世の常なのかもしれない。

 

 

心が打ちのめされている時は、

どんなにステキなアドバイスも受け入れられない。

 

同じような境遇にいる人を引き寄せて、

悪循環から抜け出せない状況のまま留まり続ける。

 

ある意味そこは、心を癒すための安全地帯。

 

本当にその状況から抜け出したいと願うなら、

他人や環境に文句を言っても何も変わらない。

 

現状を悲観せずに受け入れて、

頭を使って、

プライドを捨てて、

人の助けを借りて、

袋小路から抜け出すしかない。

 

「泣きっ面に蜂」なのは、

再起を促すための

ステキなお導きなのかもしれない。

 

 

苦しい状況を乗り越えるための第一歩。

しかしそのチャレンジはとても気持ちが悪い。

 

なぜなら今までの行動パターンと

真逆を行くような行動を迫られるから。

 

時間がない人ほど、

時間を作るために時間を使った方がいい。

 

お金がない人ほど、

人に喜んでもらうためにお金を使った方がいい。

 

人間関係も同じ。

 

人に話を聴いて欲しい人ほど、

人の話を聴いた方がいい。

 

認められたい人ほど、

人を認めた方がいい。

 

守ろうとするからこそ

逆に離れていく。

 

与えるからこそ、

それ以上になって返ってくる。

 

言ってみれば当たり前の事。

 

大切にしていた何かを手放す事で、

それに対する執着が外れて

自然な形で手に入れられるようになる。

 

と、理屈としてわかったところで、

気持ちが悪くてなかなか行動しにくい。

 

それでも、

悪循環を引き起こしていた行動・心を変えるには、

勇気を出して第一歩を踏み出すしかない。

 

 

ただ思うのは、

「改善のために勇気を出して第一歩を踏み出す事=幸せ」

とは限らない事。

 

勉強・運動・人付き合いetc、

それらが苦手で逃げる事ができたからこそ、

他の才能に気が付く事ができた人もいる。

 

うつ病になったからこそ才能が覚醒された人もいる。

 

もしその人が、

苦手な勉強・運動・人付き合いetc、

無理に頑張ってできるようになってしまっていたら、

今の才能は発揮されていなかったに違いない。

 

デメリットの裏にはメリットがある。

 

何かができないというのも1つの個性。

大切なのはそれをどう解釈してどう活かすか?

 

苦しみを乗り越えて何かを手に入れた人ほど、

それができなかった過去の自分を否定してしまいがち。

 

だからといって、そのコンプレックスを

他人に押し付けるのは

苦しみのシェアになっているような気がする。

 

 

例えばダイエット。

「太っている事=悪」ではない。

 

もしかしたら、

「痩せている事=正しい事」

「モテる事=正しい事」

という他人軸の評価に惑わされているかもしれない。

 

太っている人が痩せたら痩せたで、

モテなかった人がモテるようになったらなったで、

また別の悩みが生まれるだけ。

 

「ダイエットをすれば人生が変わる!」

と強く導こうとする人は、

太っていた過去の自分を否定するために、

そして今の自分を必要以上に認めてもらうために、

太っている他人を利用しているだけかもしれない。

 

誰かのためにという想いが暴走して、

「太っているからあなたはダメなんだ!」

「食事制限・運動し続ければあなたは幸せになれるんだ!」

などと、相手を否定してまで変化させようとしてしまうと、

逆に不幸な人を増やすような気がする。

 

自分を変える事を強要する自己啓発系セミナーにも

同じ気持ち悪さを感じる。

 

自分の意思で参加する人、

マゾな喜びを感じられる人はいいけれど、

それは万人ウケするものではないはず。

 

 

一見マイナスに見える事も1つの個性。

貧乏だって、ニートだって、独身だって、メタボだって、ホームレスだって、

その状況ならではの幸せがある。

 

「幸せな人を増やすため」

という大義名分で、

社会的弱者を救おうとするのは、

一見正しい事に思える。

 

でも、短所是正的に、

全員をひとまとめに改善させようとする事は、

逆に社会を息苦しくさせるのではないだろうか?

 

 

社会は平等ではないけれど公平。

マイナスに思える事でも、

そこには意外なプラスが隠されている。

 

ステキな恋人ができて結婚したからといって、

それが幸せとは限らない。

 

時間やお金があるからといって、

それが幸せとは限らない。

 

信じられない人は多いかもしれないけれど、

成功者と言われる人には、

成功者と言われる人ならではの

人には言えない悩みがある。

 

すべては人それぞれ。

 

 

チャレンジして乗り越えて

何かを手に入れたままそこで留まっている人ほど、

まだその何かを手に入れていない人に

ノウハウを教えようとしたがる。

 

しかしそれは案外うまくいかない。

 

なぜなら、

悪循環にハマっているところから

本気で抜け出したいと願っている人は意外に少数派だから。

 

安全地帯は心地いい。

我慢して現状に留まっている方がラク。

 

そのためか、

お金に困っている人ほど、

意外に競馬やパチンコに行く。

 

赤字の経営者ほど、

意外にゴルフやキャバクラに行く。

 

太っている人ほど、

運動もせずに高カロリーなものをよく食べる。

 

そうなるべくしてそうなっている。

それが人の欲望であって本能。

 

苦しんでまで何かの改善に

時間・お金・神経を使うよりも、

「楽しむために今を生きる事がすべて」

という考え方の人もいる。

 

「ダイエットをしなければ健康的にヤバい!」

という状況に陥っているのに、

「食べたいものを我慢してまで生きて幸せですか?」

と言う人もいる。

 

「どちらが幸せか?」

と問われるとよくわからなくなる。

 

 

 

「やりたいけれどやり方がわからない」

と言う人は確かにいるけれど、

ただの言い訳として使われているケースが多い。

 

そう言う人に

「やり方を知るためにどう動いたか?」

「具体的に今何にチャレンジしているか?」

と聞くと何も動いていない人が多い。

 

実践的なアドバイスをしたところでやらない。

 

少なくとも、

ダイエットしたいと言う人で、

ダイエットする方法を知らない人はいないはず。

 

現状そうなっている人は、

いろんな事情はあるにせよ、

「やらない」

という選択肢を自らで選んでそこにいる。

 

悪循環から抜け出すサポートをする事を

余計なお世話だと嫌がる人もいる。

 

そもそも悪循環という考え方は、

悪循環にハマっていない人・抜け出した経験がある人

からの一方的な捉え方。

 

映画のネタバレや、ゲームの攻略法を聞くのを嫌がる人がいるように、

その人はその状況を楽しんでいるのかもしれない。

 

 

少なくともわかっているのは、

気持ち悪さを乗り越えて改善したいという人もいる一方で、

それが全てではない事。

 

多数派の人に正しいとされている事と、

本人が正しいと思っている事は違う。

 

それ以上に、正しさと楽しさは別物。

 

どれだけ正しい事でも、

楽しくなければ受け入れられないし、

行動にも繋がらない。

 

そう思うと大切な事は、

それが正しいかどうか以上に

楽しいかどうか?

 

悪循環から抜け出す側だけでなく、

サポートする側が、

ワクワク楽しめているかどうか?

 

楽しめている人の言動は、

幸せのシェアになって人の心を動かす。

 

 

 

衣食住レベルでは困る事のなくなった今のこの豊かな社会。

モノから心へ。

エンターテイメント性が求められている。

 

 

たとえ相手が苦しい状況に陥っていたとしても、

「泣きっ面に蜂」の状況だったとしても、

楽しくなければやらない。

楽しければやる。

 

もしかしたら、

社会は意外にそんなシンプルな法則で

成り立っているのかもしれないです。