「幸せになりたい」

と言う人は結構いるけれど、

「(今も幸せだけどもっと)幸せになりたい」

なのか、

「(今が不幸だから)幸せになりたい」

で意味が随分違ってくるような気がする。

 

 

そもそも幸せと不幸は表裏一体。

 

心から「今が幸せ」と思える人は、

不幸な状態をわかっている人。

 

例えば、

「ご飯をお腹いっぱい食べられるだけで幸せ」

と心から思える人は、

ご飯をお腹いっぱい食べられない苦しさをわかっている人。

 

「家族で一緒に過ごせるだけで幸せ」

と心から思える人は、

家族で一緒に過ごせない寂しさをわかっている人。

 

出会いと別れが表裏一体なのと同じように、

幸せは不幸があって初めて実感できるもの。

 

海外旅行に行くと、

白米と味噌汁が恋しくなるのに似ている。

 

「幸せになりたい」

と言う人が幸せになれるかどうかは、

日常にありふれている何気ない幸せを

認知するセンサー次第という事になる。

 

 

そう思うと、

「(今が不幸だから)幸せになりたい」

と言う人は、

神頼みなんてしなくても

時間が経てば必ず幸せになれる。

 

なぜなら、不幸な状態は、

幸せを味わうための準備期間だから。

 

人は、不幸を味わえば味わうほどに、

幸せを認知するセンサーが磨かれて、

何気ない幸せを感じられやすくなる。

 

「陰極まって陽となる」

 

孤独の苦しみを味わえば味わうほどに、

それを抜け出した時の喜びが大きくなる。

 

貧乏の苦しみを味わえば味わうほどに、

お金を手に入れた時の喜びが大きくなる。

 

「ない」状態のおかげで、

「ある」状態が味わえる。

 

不幸は幸せを味わうための重要な要素。

 

全部わかっている人が

「(今が不幸だから)幸せになりたい」

と言う人を見たらきっと、

甘酸っぱい青春を味わう子供を見守るような

微笑ましい気持ちになるんだと思う。

 

 

そして、よく考えると、

「(今も幸せだけどもっと)幸せになりたい」

と神頼みする人は、

「もっと不幸(災難)をください」

と神様に願っているようなもの。

 

なぜなら人は、

強い不幸を味わうほどに、

強い幸せが味わえるようになるから。

 

例えば、

死ぬかもしれない病気になれば、

生きている幸せを強く感じられるようになる。

 

社員が大量に辞めて仕事が回らなくなれば、

会社に社員がいてくれる幸せを

強く感じられるようになる。

 

幸せとは感情の状態。

 

後で振り返ってみて

初めてうまく認知できるもの。

 

失明したり、体が動かなくなれば、

普通に健康だった頃の日常が、

幸せだったと痛いほどによくわかる。

 

台風で休みになると喜ぶくらい

行きたくなかったはずの学校が、

振り返ってみると楽しかったとわかる。

 

そう思うと、

「幸せって何?」

と幸せを認知できないくらい

何かに夢中になっている時が

本当の意味で幸せなのかもしれない。

 

 

「幸せになりたい」

と願っているうちは、

今ある幸せを充分に味わえていないという事。

 

そして、

「幸せになりたい」

と願えば願うほど、

「今も幸せってそろそろ気が付いたら?」

と教えてもらっているかのように、

不幸(災難)が降りかかってくるように感じるはず。

 

ただそれも悪い事ではなくて、

より深く幸せを味わうための入り口。

 

マラソンを楽しむのと同じように、

乗り越えた先の喜びこそが醍醐味。

 

不幸を味わい切った先に、

今ないものを嘆くよりも、

今あるものに感謝するように誘導されて、

大きな幸せを味わえるようになる。

 

 

そしてさらによく考えてみると、

本人の希望を無視して

「恋人・家族・社員を幸せにしたい」

などと願って行動する事は、

不幸を撒き散らす事に繋がりやすい。

 

なぜなら、

誰かを幸せにしようとすればするほど、

何かの基準を決めて比較させたり、

今ないものに注目させる事になるから。

 

「貯金が少ないあなたは不幸だ」

「結婚できないあなたは不幸だ」

「自由に時間を使えないあなたは不幸だ」

「変われないあなたは不幸だ」

などと人を脅すほど、

それを手に入れた時の幸せを

味わわせられるようになる。

 

ただのエゴで迷惑をかけるのか、

純粋にみんなを喜ばせるかのは紙一重。

 

ただ言える事は、

今が幸せで、将来に対して楽観的な人ほど保守的になりがち。

今が不幸で、将来に対して悲観的な人ほど革新的になりがち。

 

マイナスのエネルギーの方が攻撃的で強いので、

今が不幸で将来を悲観的に見ている人ほど、

人に強い影響を与えて、

多数派を飲み込むようにして社会は動く。

 

結果として、

「今の社会は間違っている!」

「未来の子供達のために戦わなければならない!」

などと少し歪んだ幸せ・攻撃的な思想を語る人がリーダーになりがち。

 

ヒーローみたいでカッコよく見えるかもしれないけれど、

ただ不幸を撒き散らしているだけのケースもよくある。

 

わかりやすいその判断基準は

それをやっている人が

本当に幸せそうかどうか?

人生を楽しんでいるかどうか?

 

幸せそう・楽しそうに見えないなら、

「この人も勉強中なんだな」

くらいの感覚で一歩引いて見てもいいかもしれない。

 

 

誰かを幸せにしたいと願うのは

ステキな事かもしれないけれど、

誰かに幸せにしてもらわければいけないほど、

人は不幸で弱い存在でもないはず。

 

「幸せになりたい」

なんて願わなくても

今がもうすでに幸せ。

 

大切な人を幸せにするためにと言って、

自分を犠牲にしなくても、

別の誰かを裁いたりしたくても、

幸せはもうすでにある。

 

人を幸せにしようと無理に頑張らなくても、

「こっちの方が楽しいよ!」

くらいのノリで自分が楽しむ姿を見せられるだけで幸せのシェアに繋がる。

 

そんな今ある幸せや、人生の楽しさを味わう先に、

自然な感じでの変化・成長があって、

自然な感じの幸せが広がっていく。

 

 

「足るを知る」

 

ないものによって

あるものがわかる。

 

変化する事によって

変化しない事の素晴らしさもわかる。

 

すべては

今あるものの素晴らしさに

気が付かせてくれるもの。

 

それに気が付いて、

心の平和を手に入れた人は

だんだん増えてきているような気がする。