たまに出会う怒っている人。

 

その気持ちがわからなくて、

「この人はなぜ怒っているんだろう?」

と頭がはてなマークで一杯になる。

 

嫌な人とは会わなければいい。

 

店員の接客に不満があるなら、

もう二度と利用しなければいい。

 

それがどうしても無理なら、

どうすれば改善させられるか

考えて実践すればいい。

 

「だからダメなんだ!」

と過去の失敗を責めたって

何も変わらない。

 

イライラしたところで、

自分が嫌な気持ちになるだけでなく、

相手を攻撃的にさせてしまう事だってある。

 

相手に余計な刺激を与えず、

冷静に粛々と動いた方が問題解決はスムーズ。

 

怒る事に何のメリットがあるかよくわからない。

 

でも怒る人はいる。

 

人はいったい何に反応して

何のために怒るのだろうか?

 

 

一番意味がわからないのが、

「お前の母ちゃんでべそ」

みたいに事実でもない事を言われて怒る人。

 

理屈で考えれば、

「えっ、見たの!?」

「でべそじゃないのに何言ってるの?」

と意味がわからずに

戸惑うような反応になるはず。

 

まだ

「お前の母ちゃん三段腹」

みたいな事実を言われて怒る人の方が理解できる。

 

でもそれさえも、

よくよく考えれば

「そうだけど、だから何!?」

で終わる。

 

「お前の身長171センチ」

と言われても、

悪口と認識できずにポカーンとするように、

「チビ」

と言われても、

「背が低いって何か問題あったっけ?」

と疑問に思うだけ。

 

逆に、

「背が低くて高いところに手が届かない時あるんだよね」

と手助けをお願いできるチャンスになり得る。

 

どうとらえて、どう活かすかは自分次第。

 

それにも関わらず怒ってしまうのは、

隠したい・認めたくない図星を指摘されて、

抵抗する気持ちが原因なのかもしれない。

 

「デブ」

と言われて怒る人はきっと、

太っている事実を認めたくない人。

 

「ハゲ」

と言われて怒る人はきっと、

髪の毛が薄い事実を認めたくない人。

 

そう認識していない人なら

「えっ?それ俺の事?」

と聞き流せる。

 

ポジティブに受け入れられている人なら、

「この脂肪のおかげで冬でもあたたかいんです」

「この頭のおかげで人に覚えてもらいやすくて助かってます」

などと笑いにだってできる。

 

機会を活かすなら、

「色々チャレンジしてもうまくいかないんですよね」

「髪の毛を増やすいい方法知りませんか?」

などと改善の方法について相談できるはず。

 

人が怒る時は、

その事実をネガティブにとらえていて、

受け入れたくないからかもしれない。

 

 

でもこれは、

「お前の母ちゃんでべそ」

で怒るケースとは全然違う。

 

「お前の母ちゃんでべそ」

で怒る人はもしかすると、

言葉ではなくて

相手がバカにしてきた態度に対して

怒っているのかもしれない。

 

飲食店で、

お客様扱いされない失礼な態度に怒ったり、

言葉が通じなくても、

「ベロベロ〜」

とバカにされたような態度に

怒ったりするのと同じケース。

 

そう思うと、

”でべそ”が事実かどうかとか、

何を言っているかも関係ない。

 

理屈で考えては理解できない

非言語コミュニケーション。

 

それは大切な何かをバカにされた事に対する怒り。

 

でもそれだけではきっと怒らない。

 

例えば、

熱心に何かを収集している事に対して、

「こんなガラクタ集めて意味あるの?」

と言われたって、

「この人にはこの素晴らしさがわからない人なんだな」

「この人は他人をバカにしないと自意識が保てない人なんだな」

と思うだけで終わる。

 

でも怒る人というのは、

何かを作る人・集める人の尊厳を守るために、

それらをバカにされた態度を広めないように

怒りの感情で引き締めようとしているのかもしれない。

 

 

一生をかけて1つの仕事に取り組んでいる職人が、

「そんなにこだわっても、価値が伝わらなくて意味ないんじゃないですか?」

「そんな簡単な仕事、誰でもできるんじゃないですか?」

と言われて怒るのも、きっと自分以外の誰かのため。

 

自分をバカにされるだけなら

無視できるかもしれないけれど、

自社の社員のプライドや、

先祖代々受け継がれてきた

伝統に対する尊厳を守るために怒る。

 

そう思うと、

「お前の母ちゃんでべそ」

みたいな事実ではない事を

言われて怒る人が守りたいものは

きっと自分が大切にしている何かに対する尊厳。

 

それはそれで大切かもしれない。

 

 

結局、人が怒るのは

個人としての自分と、

属している組織・コミュニティの立場にある自分との

ギャップがあるからこそ。

 

個人としては別に気にならない事でも、

社長として、親として、責任者として、

別の行動が求められる時に感情が揺さぶられる。

 

それもアドラー心理学で言う

「課題の分離」

ができていれば怒らないで済む。

 

「マスコミに公表するぞ!」

と脅されたって、

「別に誰にどう思われたって関係ないし」

と思えていたらスルーできる。

 

「自宅に押しかけるぞ!」

と脅されたって、

「別に自分には関係ないし」

と本気で思えていたら相手も拍子抜けする。

 

「俺がこの組織を守らなければならない」

「自分に関係する事で他の人には迷惑をかけたくない」

などと自分でコントロールしきれない何かを

必要以上に守ろうとするほどに苦しくなる。

 

理不尽に思える事を、

無視したり逃げる事ができない状況に追い込まれた時、

もしくは自分がそう認識した時に、

人はどうしようもなくなって怒るのかもしれない。

 

 

そう思うと、

今後さらに別人格の自分を持つ事は減り、

同一化が進んでいくに違いない。

 

今でもアイドルなどの芸能人が、

本音をオープンにできるようになってきた。

 

親としての自分も、

組織の一員としての自分も、

責任者としての自分も、

本来は同じ自分。

 

別人格として使い分けるから、

本来の判断が鈍ってしまい、

できるはずの解決がしにくくなっていく。

 

本音をオープンにするタイミングで

短期的にはストレスや反発が生まれるかもしれないけれど、

人がより楽に自分らしく生きるためには大切な事。

 

怒りは大切な感情かもしれないけれど、

その根本にある本音と建前のギャップが少なくなれば、

不用意なすれ違いも減っていく。

 

 

みんな違ってみんないい。

考え方の違いを許容できる社会へ。

 

所有の概念を乗り越えて、

自分でコントロールできない事を手放す流れは

今後さらに進んでいくような気がします。