矛盾に敏感なせいか、
いつもそこに違和感・気持ち悪さを感じてしまう。
そして、
カッコいい事を言っているつもりの人が、
実は矛盾している事に気が付くと笑えてくる。
「批判してはいけない!」
と叱る人はいるけれど、
その人自身も
「批判している人に批判している」
ので
「あなたもできていないじゃん!」
と思えて笑えてくる。
「お前は共感力ないからダメなんだ!」
と叱る人はいるけれど、
本当に共感力がある人というのは、
「共感力がない人も受け入れられる人」
のはずなので、
「ダメなんだ!」
と叱る人の共感力のなさに笑える。
「自己肯定感が低いからダメなんだ!」
と叱る人はいるけれど、
なんでもダメだと思ってしまう人だから自己肯定感が低いのに、
そんな人をさらに谷底に落とそうとするようなアプローチに笑える。
大切な事を伝えようとすると、
すべて逆になるのかもしれない。
つまりは長所伸展・全肯定。
自己肯定感を高めるには、
「自己肯定感が低い事を肯定する事」
で自己肯定感が高まる。
共感力がない人に、
共感力について伝えたければ、
「共感力がない事に対して共感する事」
で共感力について伝えられる。
批判癖のある人に
批判しない事の価値を伝えたければ、
「批判する人を批判せずに認める事」
によって批判しない事の意味・価値ついて伝えられる。
すべてを受け入れて認めて許す事で人の心は癒される。
そう思うと、
「自己肯定感が低くてもいい」
「共感力がなくてもいい」
「批判してもいい」
と本来伝えたいはずの事と、
真逆に思えるような伝え方が、
結果として本当に伝えたい事を伝える手段になり得る。
「正解はない」
「やりたい事をやったらいい」
「頑張らなくていい」
「執着しないでゆるく楽しくやればいい」
などと言う人は、
きっとこんな背景をわかっているからだと思う。
とはいえそんな素晴らしい言葉も、
強くとらえすぎると逆効果。
楽しくできていない自分はダメなんだと
楽しめずにヘコむ人もいる。
ゆるさが大事ではあるけれど、
「ゆるくなければいけない」
と思った時点でゆるくない。
頑張らなくてもいいけれど、
頑張ってもいいし、
頑張らない事に頑張らなくてもいい。
執着しない事は大事だけど、
「執着してはいけない」
までいってしまうと、
執着しない事に執着している。
「正解はない」と信じるのはいいけれど、
「正解がない」って事も正解ではないので、
正解があると思っている人と争わなくてもいい。
言葉はハッキリしすぎていて、
曖昧なものを曖昧なまま伝えるのが難しい。
心に寄り添った感情的な事ほど、
言語化した時点で
何かがゆがむようにできているのかもしれない。
顔を合わせて対話ができる相手なら伝わりやすいけれど、
厄介なのは、
話をよく聞いていない人・顔も知らない人が
その言葉を人づてに聞いて噛み付いてくる時。
特にコンプレックスを抱えていたり、
何かを苦しんで癒し切れていない人はとても敏感。
話の一部だけを切り取って
「それはダメに決まってるだろう!」
などと感情的に怒る人が出てくる。
そんな人達を肯定できずに
悩んだり、振り回されたりしている人は、
私を含めてきっと多いはず。
「罪を憎んで人を憎まず」
犯罪をなくしたければ、
犯罪をする人を肯定する。
争いをなくしたければ、
争いたくなる人の気持ちに寄り添って癒す。
感情的になって怒鳴って叩くような事をすれば
表面的には収まったように見えるけれど、
実際は相手にストレスを与えて留めているだけなので、
そのうちそれ以上になって爆発する。
裁こうとすればするほどに
逆効果になっているような気がする。
心がざわついた時はたいてい
自分がその事にマイナスの感情を持っている証拠。
現実をありのままに受け止めて、
自然体で調和させる事。
とはいえこれも、
「自然体でやろう」
と思っている時点で不自然。
自然体とか、
調和とか考えなくても、
当たり前のようにできている状態を作る事。
考えすぎると遠のくという
面白さを楽しみます!