何かを進めようとする時に、

批判される事は本来喜ばしい事。

 

違う意見の中から新しい気付きをもらって、

より良いものに改善できるステキな機会。

 

反対意見があると言うのは、

ある意味関心を持って

関わってもらえている証拠。

 

逆に、会議の場で、

誰にも何にも言ってもらえない方が

無関心の象徴のようで不安になる。

 

 

とはいえ、

早くスムーズに進めようとしている人にとって、

批判は足を止める事に繋がって嫌われがち。

 

人と人が意見が違うのは当たり前なのに、

違う意見を言う人は、

時として邪魔者扱いされる事もある。

 

会社でも、

頭のいい人・力のある人ほど

上司と意見が違う事が増えるので、

疎ましがられやすい。

 

批判を恐れ、

周りがイエスマンばかりになったら、

組織は衰退に向かう。

 

批判を悪い事のように

とらえてしまうのはもったいない。

 

 

でも、そんな私も、

野党による政治批判や、

会社の陰口を叩くサラリーマンが

どうも苦手だったりする。

 

その理由は、

批判に愛がない感じがするから。

 

本来大切なはずの批判を気持ち悪く思うのは、

責任者を責めるためだけに、

非難しているかのような意図を感じる時。

 

仲間としてではなく傍観者的な立場で、

どうにもできない過去の事に対して

代案もなく感情的に噛み付く人を見ると

「この人はどうしたいんだろう?」

と疑問に思うケースも多い。

 

 

例えば、

「年金返せ!」

と騒いだところで、

叩かれている側の立場からすると、

問題を解決できる方法・財源がないから困っている。

 

もっと言えば、

その中でできる限りの事やって、

他の財源を使ってでも、

なんとかしようとしているから困っている。

 

代案もなく文句を言うだけでは

「じゃあどうしたらいいの?」

となるだけで何も変わらない。

 

さらに不思議に思うのは、

「年金返せ!」

と言う人のほとんどは

年金で得をする側なのに文句を言っている。

 

本当に年金を返してあげたとしたら、後で、

「騙された!」

と余計に騒ぐに違いない。

 

もし年金制度を廃止したら、

生活できない人が溢れて、

治安が悪くなって、

もっと騒がれるようになるに違いない。

 

 

会社で、

「給与・休みをもっと増やせ!」

と文句を言う人も一緒。

 

上司だって給与・休みを増やしたくても

それができないから困っている。

 

給与を上げるにしても、

そのお金をどこから

引っ張ってきたらいいのかは

一緒に考えてくれない。

 

休みを増やすにしても、

その分の人員の確保・仕事の割り振りまで、

一緒に考えてくれない。

 

ただ自分が被害者として、

会社・上司を悪者扱いしようとしている

ケースの方が多い。

 

 

批判する側と批判される側の間には

かなりの情報格差がある。

 

たいてい、批判されても、

批判する人の言う通りにはできない

別の問題を抱えている。

 

だから反対されたところで、

別の問題をも踏まえて進められる

現実的かつ有用な代案がなければ動きようがない。

 

限られた選択肢の中で仕方なく下した

ベターな決断を責めたって、

責任者を困惑させるだけで何も生まれない。

 

逆に責任者に対応する時間を消耗させ、

余計なストレスを与えて

生産性を落とさせるだけ。

 

頑張っている人を、

陰謀論・感情論で叩こうとする人の方が

よっぽど悪質と思えてしまう。

 

 

騒ぐ人は短期的な視点で感情的に怒りがち。

 

「上司は現場の事をわかってない!」

と怒りたくなる気持ちもわかるけど、

現場と上司は視座も立場も違うので

意見が一緒にならないのは当たり前。

 

またその矛先になっている責任者は、

長期的な視点・論理的に

対処しようとして怒られがち。

 

もし上司の判断・決断が

現場と全部一緒になるのであれば、

上司は勉強不足だと思うし、

上司が存在する価値がないとさえ思う。

 

それでも

真面目になんとかしようとする人ほど、

事情を知らない人から怒りの感情をぶつけられるもの。

 

頑張っている人が

ハズレくじを引かされたみたいに

非難の的にされるのを見るのは寂しい。

 

 

 

結局、批判がうまく機能しないのは、

建設的な議論が進みにくいのは、

批判する側と批判される側の

目的が違う事が原因のような気がする。

 

お互いが今後の社会・組織を

より良くする目的で動いているなら、

ヒートアップして言い争いにはなるかもしれないけれど、

リスペクトし合ってステキな議論になる。

 

でもそこに、

「自分がすごいという事を認めさせたい」

「相手が恵まれていてムカつくから成敗したい」

などの余計な目的・感情が入ると

攻撃的になって議論がすれ違う。

 

社会や組織の事を第一に思うのなら、

自分が認められるかどうかとか、

自分個人の正義感なんて、

どうでもいい些細な事。

 

「バカ」だの「死ね」だの

汚い言葉を使って

相手を貶めなくてもいいはず。

 

それでも粘着するように、

攻撃的に責任者を貶めたがる人がいたとしたら、

寂しくて、ストレスを抱えて、

発散したいだけの人かもしれない。

 

議論をする以前に、

癒しが必要な人かもしれない。

 

 

 

もし、批判に余計な感情が入っていないもかかわらず、

相手がいい意見を受け取ってくれないとしたら、

それはきっと実践サポートの問題。

 

昔、目安箱みたいなものを

取り入れていた支援先があったけど、

「社員の意見を聞くのはいいけれど、いい意見でも実行する人がいなくて進められなくて困る」

と廃止にせざるを得なかった事がある。

 

「こっちの意見の方が正しい」

と言うのはいいけれど、

言われる側にとっては、

「そのための大変な調整・行動はどうすりゃいいの?」

とただでさえ忙しいのに、

膨大な作業が上乗せされるのを困惑する。

 

たくさんの課題ややりたい事が山積みの状態の中で、

「俺の意見を聞け!」

とさらに仕事を増やされる意見を言われても、

責任者にとっては迷惑なだけかもしれない。

 

 

だからきっと、

批判する側に必要なのは、

「意見+行動」。

 

「今やってる事にこんな視点を取り入れたらもっと良くなると思って、

こんなものを作ってみたんですけど、この流れでテスト導入できませんか?」

「そんな苦渋の決断をしなくて済むために、私達にどんなお手伝いができますか?」

などと、実践まで含めて一緒に関わってあげられたら、

愛のある批判になって、

建設的な方向で一歩前に進むはず。

 

足を引っ張り合うような醜い言い争いにも

何らかの価値があるとは思うけど、

もっと建設的で優しい形での批判が

広まってもいいんじゃないかと思います。