「お腹いっぱいご飯が食べられるだけで幸せ」

と心から思える人は、

空腹の苦しみをわかっている人。

 

「生きていられるだけでありがたい」

と心から思える人は、

死が身近にある事をわかっている人。

 

何気ない毎日に感謝・幸せを感じられるのは、

何気ない毎日が当たり前でない事を、

心のどこかでわかっているから。

 

「この幸せをずっと味わっていたい」

と望んだところで、

自ら心のどこかでわかっているように、

それは当たり前ではない事。

 

そのうち終わるようにできている。

 

 

「ありがとうの反対語は当たり前」

という考え方は好きだけど、

もしそうだったとしたら、

「当たり前の幸せは存在できない?」

とふと疑問に思い始めたのがちょうど先月。

 

「都築さんって、いつもそんな事ばかり考えてるんですか?」

と言われる事もあるけれど、

ヘリクツみたいな事を

深く考えるのが好きなんだから仕方がない(笑)。

 

「当たり前の幸せ」というのは、

「幸せが有り難くない状況」なので、

幸せに感謝できなくなったり、

認識できなくなったりしていくはず。

 

 

良いか悪いかはよくわからないけれど、

不幸があるからこそ幸せを感じられるとしたら、

とても興味深い。

 

思い出したくもないムカつく出来事も、

一生分かり合えないと思えるような酷い相手も、

どうしようもない理不尽も、

すべてが人に幸せを感じさせる

一つの要素になっているという事になる。

 

できれば避けたかった苦難も、

実は自分の幸せのために必要だからこそ

起こってきたのかもしれない。

 

 

 

敵と味方、右と左、国と国、私とあなた、勝ちと負け etc、

元々はすべて、同じ・1つとして認識していたもの。

 

1つの何かに境界線を引いて、

2つに分けて認識する事で

違い・比較の感情が生まれ、

刺激を感じられるようにしてきたのが人間の歴史。

 

例えば、

世の中すべての人が優しかったら、

「あの人は優しいから好き!」

と実感できる事もなく、

優しいのが普通すぎて魅力を感じられない。

 

近くの港から眺める海と、

ハワイまで行って眺める海が、

同じ太平洋だと感じる人には、

綺麗な海の魅力がわからない。

 

豚肉も、鶏肉も、牛肉も、

同じ肉としてしか認識できない人には

グルメな喜びはわからない。

 

すべて同じと思うと、

「今日は牛肉が食べたい気分!」

なんて欲望を感じる事もできなくなる。

 

勝負事も、

「誰が勝っても別にいい」

となって応援する喜びがなくなる。

 

それはそれで、

平和なのかもしれないけれど、

楽しさが味わいにくくなる。

 

違いを感じられるからこそ、

刺激があって喜びが味わいやすくなる。

 

 

「みんなを幸せにしたい」

「誰もが平等に幸せを感じられる社会にしたい」

などと言う人はいるけれど、

本当にみんなが当たり前のように幸せだったら、

当たり前過ぎて幸せを味わえないのではないだろうか?

 

実際、当たり前のように

今の日本に住んでいる人には、

戦時中の人が喉から手が出るほど望んでいた

「戦争がない幸せ」

「衣食住が満たされている喜び」

をなかなか味わいにくい。

 

そしてもし、今の私たちが、

全く仕事をしなくても豊かに生きていける社会になったとしたら、

嬉しいのは最初だけで、

すぐに退屈でつまらないと感じるようになる気がする。

 

 

片一方だけでは味わえない喜びを、

もう片方がある事で違いが認識できると思うと、

望まない出来事も、

人生に彩りを与えてくれるステキな経験。

 

すべては必要・必然に起こっているのかもしれない。

 

 

それを受け入れた上で、

終わらない幸せを手に入れる方法を考えるとするならば、

不幸じゃない時が幸せで、

幸せじゃない時が不幸という

二元論的な考え方を乗り越える事。

 

「私は運がいい」

と自信を持って言える人は、

他の人からすると運が悪いととらえられるような出来事さえも、

「運がいい」ととらえているだけ。

 

たとえ、詐欺でお金・モノが取られても、

「管理する必要がなくなったおかげで、好きな事に集中できるようになった」

などと幸せを見つけるのがうまい。

 

1つの出来事を、

「ここが良いところで、ここが悪いところ」

と、良い面と悪い面と2つに分断すれば

不幸も必ず見えてしまう。

 

だからこそ、

メリットとデメリット、長所と短所など

2つに分けないで、そのまま丸ごと味わうのが

きっと当たり前の幸せを味わい続けるコツ。

 

何が起きても幸せ。

右or左どちらに転んでも幸せ。

右も左も選ばなくても幸せ。

不幸がなくても幸せ。

 

何が起きても幸せな人は、

何かの出来事に依存せず、

幸せである事を決めているだけ。

 

 

何が幸せで何が不幸か、

白黒ハッキリするのもいいけれど、

曖昧なものの中に価値を見出す考え方も

面白いんじゃないかと思います。