思えば私が高速インターネット回線と

googleの存在を知ったのが

2000年にカナダに行った時。

 

yahoo検索で1つのWEBページに辿り着くのに

数十秒は掛かるのが当たり前だった中、

ストレスなく一瞬でなんでも検索できた事に

衝撃を受けたのを覚えている。

 

googleで検索して

近くのビリヤード場に行くだけで、

「すごい!どうやって調べたの?」

と日本人の友達に言われたくらい、

当時インターネットで調べるというのが一般的ではなかった。

 

それが今ではスマホが普及して、

何でも簡単に調べられるようになった。

 

人に道を聞く必要がなくなるくらい、

なんでも調べる事が当たり前になった。

 

 

調べる事が当たり前ではなかった時代から、

何でも簡単に調べられる時代への急激な変化。

 

その反動かどうかはわからないけれど、

なんでも調べたらわかると

勘違いしている人が多いような気がする。

 

検索も意外に万能ではなくて、

調べて答えがわかるのは、

お店の場所、

ケガの対処法、

故障の修理方法 etc、

明確な答えがある物質的なものだけ。

 

感動したい

両親に認められたい

気持ちをわかってもらいたい etc、

感情的・精神的なものは、

調べる事で多少のヒントはあったとしても、

明確な答えを導き出す事はできない。

 

例えばもし、

「感動を味わいたい」

という人が

「感動する方法」

と検索したところで

感動する方法なんてわからない。

 

「あぁなるほど、これが感動なのね!」

「わかった、こうやったら感動するんだ!」

と頭で理解できたと思えたとしたら

それはきっとわかった気になっているだけ。

 

「感動するから、ここに行ってみるといいよ!」

とアドバイスを受けて感動スポットに行ったとしても

期待値が上がっていたり、

感動を探す分析モードになってしまっていると、

感動を味わうどころか、

逆に感動から遠のいてしまう事になりがち。

 

 

「今どきの若者は頭でっかちな人が多い」

と言う人もいるけれど、

頭で理解するものと、

心で感情で味わうものをごちゃまぜにしてしまって

物事の味わい方をわからないでいる人は確かに多い気がする。

 

もしかすると、その中には、

言葉にできない虚無感を抱えたまま

何をどう相談していいかもわからないまま

悩んでいる人もいるかもしれない。

 

 

 

言葉にできない感情を

言葉でわかった気になってしまう弊害。

 

本当はもっと深くて味わい深いステキな体験が

なんとなく軽薄になってしまう。

 

正解がないからこそ面白い事が、

正解がわかった気になってやる気をなくす。

 

さらにそれを問題だと捉えて、

「やる気を高める方法」

「やりたい事を探す方法」

「人生の楽しみ方」

なんて事をまた調べて学ぼうとするとドツボにハマる。

 

答えがないものを

答えがあるかのように振る舞う人を

儲けさせるだけになりがち。

 

 

 

「教育・勉強は本当に価値があるのか?」

 

もちろん価値がない訳ではないし、参考にもなるけれど、

なんとなく、教育・勉強の限界についても、

少しずつみんなに伝わっているように思える。

 

そもそもなぜ

「勉強した方がうまくいく」

「教育不足だからうまくいかない」

「物知りな人は偉い」

みたいな固定概念があるかというと、

情報が希少だった一昔前は、

何かやりたい事があると、おそらく、

それをどうやって叶えたらいいか人に聞いたり調べたりすれば、

比較的簡単にうまくいった時代があったから。

 

情報格差を利用する事が、

簡単に成功するためのセオリーだったから。

 

でも、これからの時代は

それではうまくいかないように

なっているような気がする。

 

なぜなら

「こうやったらうまくいく」

と知られている方法は、

過去の事例に過ぎない。

 

自分が調べられるようになっていた時点で

もうすでに他の誰かも知っている事。

 

もう既に他の誰かがやっている事。

 

自分だけが知っている画期的な成功法則が

もし見つけられたとしても、

それは隠そうとしてもすぐに広まってしまう事。

 

例えるなら、

投資の素人が

みんなが知っている情報を聞いて

「この会社の株は上がりそう」

と思って買ったところで

うまくいかないのに似ている。

 

それでも情報・教育を飯の種にしている人達の中には、

正解がないという事がバレてしまうと商売が成り立たなくなるせいか、

見て見ぬフリをしたりしているかもしれない。

 

 

 

今うまくいっているようなビジネスは、

一昔までは

「そんな事をして儲かるの?」

「そんな事をして意味あるの?」

と言われるくらい、

人がマネしたいと思わないようなところに

偶然が重なってマーケットができたようなケースが多い。

 

そう思うと、

教育や勉強でセオリーを学ぶのはいいけれど、

やる前から、

「こうやったらうまくいく可能性が高い」

と思えるようなものは、

たいてい二番煎じでつまらなくなる。

 

「こんなものがうまくいくの!?」

と不安になるようなものを

なんとかうまくいかせるからこそ

独創的で面白いものができる。

 

人の役に立つというのも一緒。

 

人の役に立つ事は大事だし、

結果としてそうなるのはいいけれど、

人の役に立とうと考えすぎると、

そのサービスはありきたりでつまらなくなる。

 

儲ける事を考えすぎないで、

人の役に立つことを考えすぎないで

衝動的に作ったものの方が

想定外の面白い結果や、大きな可能性に繋がるのかもしれない。

 

 

 

うまくいくかどうか想像も付かないからこそ面白い。

 

どうなるかわからないからこそワクワクする。

 

教育や勉強では答えの見えない先、

限界ギリギリまで頭で考えないで、

流れや感情に身を委ねる事で生まれる何かこそ、

想像もできない大きな可能性に繋がる。

 

「それって意味あるの?」

「それって誰の役に立つの?」

「そんな事やって儲かるの?」

と勉強ができる人から指摘を受けたとしても、

「それでも好きなんです!やってみたいんです!」

と目を輝かせて言えたらそれできっといい。

 

想像の範囲を超えたことは、

損得や理解を超えたところから生まれる。

 

そんな何かに夢中になれる自分でありたいし、

またそうやって面白そうな事にチャレンジしている人を

応援できる自分でありたいです。