「学校でいじめられた」

なんて相談すると、

「いじめられるようなお前が悪い!」

「なんでやり返さないんだ!」

と逆に親や先生に怒られたというのはほんの昔の話。

 

いじめで子供も大人も自殺する事件が

相次いでニュースになってから、

いじめはとてもナーバスなものになった。

 

今の時代に、

いじめの相談をしたけれど突き放されたなんて言えば、

マスコミが騒ぐ大きな問題になりかねない。

 

 

思えば、

飲み会でのアルコールの強要も、

痴漢も、働きすぎも、危険運転も、

理不尽さを伴う死亡事件をキッカケにして、

大きな社会問題となっていった歴史がある。

 

”飯が喉を通らないほど落ち込む”

という意味で言えば、

仕事の失敗だって、失恋だって、人の裏切りだって、

ほどんど一緒のはず。

 

でもなぜか、人の命に関わるとわかった瞬間に、

優先順位が極端に変わって対処されるようになる。

 

「死にそうなほど大変なんだ」

くらいでは相談相手にさえなってくれないような忙しい人でも、

本当に死んだとなればすべてのアポを調整して葬式に駆けつける。

 

それほど人間にとって、

命が絡む出来事だけは

特別なのものなんだと思う。

 

 

それは家族・友人に対する気遣いでも同じ。

 

仕事や失恋や人間関係の相談事については、

気軽に話を聞いてアドバイスもできるのに、

人の命が絡む相談事になると、

本当に何も言えず、何もできなくなる。

 

目の前に家族を亡くして悲しくて涙する人がいても、

心を晴れやかにするような気の利いた言葉は思い浮かばない。

 

不用意な一言が相手を傷つけるかもしれないと慎重になる。

 

生死の結果を待つ病院の待合室でも、

普段だったら言う冗談も雑談もできないまま、

ただ静寂な時間が流れる。

 

それはつまり、

相手がどれくらい悲しんでいるか

という悲しみの深さよりも、

それが命に絡むかどうかで

事の重大さを認識しているとも言える。

 

 

 

仕事においても、

会社の存続(会社の命?)に関わる事になると

優先順位が一気にあがる。

 

「給与を上げるために頑張ろう!」

と言っても言うほど団結力が高まらない割に、

何かのアクシデントがあって、

「会社存続危機を乗り越えるために力を貸してほしい!」

と言うと団結力が高まる。

 

「お金がない」

と言っても助けてくれないような人でも、

「この2日間、お金がなくて何も食べていない」

と言うとおそらく助けてくれる。

 

「命懸けでやればなんとでもなる」

と言う人がいるのは、

何事も命が絡む出来事にすれば人は動くという事を

わかっているからかもしれない。

 

 

 

とある人ともう二度と会えなくなるという意味では、

人間関係が悪化しても

遥か彼方に引っ越ししてしまっても、

命を亡くしてしまっても、

言うほど変わらないはず。

 

それでも死が絡むと堪えるのは、

きっと人間の生存本能。

 

何事も命が絡むと優先順位が上がるような

プログラムがあるからなんだと思う。

 

そこには特別な理由がある訳ではなくて、

本能的で避けられない認識の問題。

 

 

 

ではそんな命が絡む悲しみと

どう付き合っていったらいいんだろうか?

 

例えば、1つの宗教的世界観では

「人は死んだ後、魂になって天国で待っているんです」

と認識をして死の苦しみを和らげる。

 

例えば、1つのスピリチュアル的な世界観では、

「そういう役割を自ら選んで生まれてきた人なんです」

という認識をして死の苦しみを和らげる。

 

会った事はないけれど、

霊媒師は死んでしまった人の言葉を受け取って伝える事で、

残された人を癒やすと聞いた。

 

脳を研究している人の中には、

「死の瞬間は快楽物質のおかげですごく気持ちがいいんです」

とニコニコして言う人もいる。

 

避けられない死に対する悲しみを

和らげる人間の知恵。

 

避けられないからこそ、

死に対する新たな認識を付け加える事で

心を安定させようとしているように思える。

 

 

 

そもそもなぜ人が悲しむかというと、

そこに罪悪感があるから。

 

残された人にとっての

死に対する罪悪感はたいてい、

「この人は本当は死にたくなかったはずなのに・・・」

「私がもっとこうしていれば助かったかもしれない」

と自分を責める気持ち。

 

そのベースにあるのが

死は悪い事だという認識。

 

残された周りの人が

死を悪い事と認識するから悲しいのであって、

余命がわかっている人が苦しみから開放されるなら、

「これでやっと楽になれたね」

と優しい笑顔で見送る事ができるケースだってある。

 

よく考えると、

不慮の交通事故で巻き込まれたような人は

未練を持ったまま死んでいるかもしれないけれど、

死ぬ人すべてが死にたくない思いを抱えながら死んでしまったとは限らない。

 

以前取材した、首吊りをしたけれど紐が切れて生き残った人は、

「自殺する人は例外なく自分で死にたくて死んでいるから」

とハッキリ言っていた。

 

病院で死を控えている人だって、

死ぬ心の準備・覚悟をして

きちんと遺書を書いて死を肯定的に受け止めている。

 

末期がんの人の中には、

毎回毎回溺れるような苦しみに襲われていて、

「こんなに苦しいなら早く死んで楽になりたい」

と言って亡くなった人もいた。

 

死ぬ人がどう思って死んだかを、

残された人がどう認識しているかによって

悲しみの深さは変わるのかもしれない。

 

 

 

結局、どんな出来事があったとしても、

自分の悲しみを作っているのは自分の認識。

 

悲しみによって強く優しくなれるという意味では

悲しむ事も悪くはないかもしれないけれど、

それでもどうしても耐えられない時もきっとある。

 

そんな時こそ、

「死んでしまった人は本当は死にたくなかったはず」

「生きていればもっと幸せだったのに」

と勝手に決めつける事なく、

死は本当に悪い事なのか

一歩引いて客観的に考えてみる事が

癒やしに繋がる1つの手段になるかもしれない。

 

 

これからきっとたくさん経験していく身近な人の死。

 

モヤモヤしてザワザワして

心が揺れる事もたくさんあるだろうけど、

前向きに乗り越えていきたいです。