「子供達の自己肯定感を高めなければならない」

と強く主張する人に出会うと、

たまに気持ち悪さを感じる時がある。

 

確かに自己肯定感は大切だとは思う。

 

「あなたはあなたのままでも素晴らしいんだよ」

みたいな言葉は、

相手のすべてを優しく包み込むような感じがして個人的に好き。

 

でもそれがいつの間にか

自己肯定感が低い人を否定するスタンスに

変わっていくケースが多いように思う。

 

「あなた達は自己肯定感が低いからダメなんだ!」

「子供達の自己肯定感を高められないあなた達の教育はおかしい!」

などと自己肯定感をもって特定の人を裁くようになっては本末転倒。

 

自己肯定感が低い人を高くさせるために介入しているはずの人が、

関わる人の自己肯定感をさらに低くさせるスパイラルに陥りがち。

 

 

 

物事には必ず長所と短所がある。

 

自己肯定感が高いと素晴らしくて、

自己肯定感が低いとダメみたいに、

片一方だけを正しいという考え方は、

最終的に必ずどこかで矛盾・破綻する。

 

テストの点数が良いと褒め続けた後、

その子供がテストの点数が悪くなると、

「テストの点数が悪い私はダメなんだ」

と落ちるのは当たり前。

 

頑張っている人を褒め続けた後、

その子供が頑張らなくなったら、

「頑張らない私はダメなんだ」

と落ちるのは当たり前。

 

結果が悪くても、頑張らなくても、

自己肯定感が高い人も低い人も、

それでもすべて受け入れてすべて素晴らしいと

両方ともを肯定する考え方が、

本当の意味で自己肯定感を高める事に繋がるはず。

 

 

こんな事は至るところで起こっている。

 

「自己肯定感を高めたい」

「自己肯定感を高めなければならない」

に。

 

「勉強した方がいい」

「勉強しなければならない」

に。

 

「挨拶をした方がいい」

「挨拶をしなければならない」

に。

 

「ちゃんとお金を稼いだ方がいい」

「ちゃんとお金を稼がなければならない」

に。

 

良かれと思ってやっていたはずの事が、

いろんな人に広まっていく過程で

いつの間にか過激になっていき、

人を裁く材料に変わっていく。

 

 

「ドラゴンズが好き」

というだけで

「巨人は好きじゃないのね?」

と勝手に勘違いされるように

片一方を良いと言うと、

なぜか相反するもう片方を悪いものと認識されがち。

 

みんなが気持ち良く過ごすためのモラル・マナーによって、

逆にそれで生きづらくなってしまうのは

もったいなくて気持ち悪く感じてしまう。

 

 

 

でも、よくよく考えると、

こうやって気持ち悪さを感じるのは勘違い。

 

「・・・しなければならない」

と発信する人にも悪気はないし、

「その考え方はおかしい」

と怒っている人にも悪気はない。

 

私もよく勘違いする。

なぜだろうか?

 

きっとこうやって、

意図しない勘違いが広まっていく理由は、

特定の人に向けた自分の感想を

不特定多数向けの提言ととらえてしまっているから。

 

当たり前のようで忘れがちな事実として、

誰かが発信するメッセージの最後にはすべて、

「と私は思ってます」

という言葉が省略されている。

 

「子供達の自己肯定感を高めなければならない」

というメッセージは

「子供達の自己肯定感を高めなければならない(と私は思います)」

というただの感想。

 

「そんなに頑張らなくていい」

というアドバイスは決して、

すべての頑張っている人を否定するものではなくて、

「(あなたの場合)そんなに頑張らなくていい(と私は思います)」

という特定の人に対する感想。

 

「無理に誰かと結婚しなくてもいいじゃん」

というアドバイスは決して、

結婚するすべての人を否定するものではなくて、

「(あなたの場合)無理に誰かと結婚しなくてもいい(と私は思います)」

という特定の人に対する感想。

 

怒りたい人はそれで怒ってもいいけれど、

「なるほど、あなたはそう思っているのね。」

というだけの話で、

直接関係のない人が、

その言葉を聞いて怒る必要はないはず。

 

それなのに、

SNSなどで炎上している様子をみると、

こんな特定の人向けの感想が、

流れ弾に当たるように

自分を否定されたと勘違いして怒っているだけのケースが多い。

 

 

特定の人向けのメッセージが、

不特定多数に流れて勘違いされる弊害。

 

誰かを怒らせてしまった時に思うのは、

「そんなつもりで言ったんじゃない」

という言い訳。

 

でもそう言っても

怒っている相手には響かない。

 

ただのすれ違いで

仲が良いはずの人と仲違いをしたり、

お互い嫌な想いをする必要はないはずなのに、

それでも人はすれ違う。

 

 

 

そもそも他人の評価というのはよくわからない。

 

数学的な答えは1つかもしれないけれど、

答えがないものだってたくさんある。

 

例えば、

「上手な字」「上手な絵」「上手な歌」

と言うけれど、

何が上手で何が下手かは、

受け取り手によって変わるもの。

 

1000人のうち999人の人が嫌いと言われるようなアートでも、

たった1人が大好きと言えばそのアートには価値がある。

 

もっと言えば、世界中の誰もが嫌いというアートでも、

描いた本人が好きならそれはとても素晴らしいもの。

 

売れるかどうか?

儲かるかどうか?

効率的かどうか?

何%の人に好まれるかどうか?

など数字・指標でジャッジする事はできても、

1人1人の感想はジャッジする事はできないもの。

 

 

 

人の感想と自分の感想は

一緒でなくてもいい。

 

違っていてもいい。

 

相手の感想は感想のまま受け止めて、

場合によっては受け流して、

自分は自分の感想を持てばいい。

 

 

誰がなんと言おうと、

「それでも私はこれが好きなんだもん」

「それでも私はこう思うんだもん」

と思えればそれはそれで自分の世界では正しい。

 

怒っている人に対しても、

叫んでいる人に対しても、

そこに自分が流されなければ、

お互い違う世界観の中で平和でいられる。

 

誰かの何かの言葉に傷ついた時には、

そのメッセージが特定の人向けの感想か?

自分を含む不特定多数に向けられた言葉なのか?

改めて考えてみる事ができたなら、

人間関係のすれ違いはほとんど解消されるように思うのです。