会社でも、コミュニティでも、恋愛関係でも、

人が何かをやめる時は必ず

「なんでやめるの?」

と聞いたり聞かれたりする。

 

その割に、

「なんで続けるの?」

と聞いたり聞かれたりする事はほとんどない。

 

続ける事とやめる事をフラットに考えていれば、

「続ける理由がなくなったからやめる」

くらいの理由でやめてもおかしくないはず。

 

でもそんな理由で

何かをやめよう・やめられようものなら、

「そんな理由じゃ納得できない!」

「そんな簡単に別れるあなたはおかしい!」

と揉める事になってしまいがち。

 

一致しない利害関係。

 

面倒くさい長話・お説教モードに

移行するケースもある。

 

いつまで経っても平行線の

楽しくもない不毛な話し合いの経験がある人は、

話せばわかるという言葉はピンとこないはず。

 

そしてそんな面倒くささが、

何かをやめる時の心理的ハードルになって、

やめたい事を続けている人は多いような気がする。

 

 

 

なぜやめる人と残される人は

わかり合いにくいのだろうか?

 

なぜ何かをやめるだけで

人を傷つけて・傷つけられてしまうのだろうか?

 

なぜ、

途中でやめる事は悪いという勝手な固定概念で

残される人がやめる人を裁こうとするのだろうか?

 

 

まず疑問に思うのは、

物事は始める方が簡単で

やめる方が大変という事。

 

何かを始める時は、

「とりあえず一緒に遊びにいこうよ」

「3ヶ月くらいやってみてから判断したら?」

と軽く誘う割に、

やめるとなると急に、

「なんでそんなに簡単にやめるんだ!」

と急に重々しくなりがち。

 

「お前には感謝の気持ちがないからダメなんだ!」

「やめる事でどれだけの人に迷惑かけるのかわかってるのか!」

「今までしてやった恩を忘れたのか!」

などと怒り出す人もいる。

 

きっとその背景にあるのは、

誰かと別れた時に発生する

理屈では説明できないような悲しみの感情。

 

 

始まりがあれば終わりがあって、

出会いがあれば別れがあるのは当たり前。

 

わかっているはずなのに、

ただ昔の状態に戻るだけなのに、

一度何かを手に入れると、

そこに愛着が生まれて

失った時悲しくなってしまう。

 

そしてやめる人がステキであるほど、

残された人にとっては、

依存心が引き裂かれ喪失感が大きくなる。

 

だから、

たくさん貢献してうまくやっていたはずの人が自分達から離れてしまうと、

その影響力が大きいほど恩を仇で返されるようなショックを受ける事になる。

 

 

 

会社でも、

拡大路線で仲間が増えていくのは嬉しい割に、

仲間が減っていく縮小路線は悲しい。

 

家族でも、

増えるのは嬉しいけれど、

減るのは悲しい。

 

増えた時におめでとうとは言えるけど、

減った時におめでとうと言えば、

不謹慎な人になってしまいがち。

 

「またいつでも会えるから」

「離れても友達のままだから」

と言える関係性が続けば

多少は楽になるかもしれないけれど、

それでも会いたい時に会えないと思うと悲しい。

 

物理的にもう二度と会えなくなる死別でも、

天国・輪廻転生・魂などという宗教的概念を使って

実は遠く・近くで見守ってくれている認識にして

別れの悲しみを和らげる。

 

とはいえ、

組織の雰囲気を悪くしていたような人が

やめる事で喜ぶ人もいる。

 

 

そう思うと、

人がやめるという行為自体が悲しい訳でなくて、

残る人が何かを失ったと認識する事が

悲しみの感情の原因になっている。

 

きっと、

やめる人が残される人から叩かれるのは、

残される人はやめる人を失うマイナス部分しか見えていないから。

 

やめる人にその意図はなくても、

残される人にとっては、

自分を否定されているように

感じてしまうかもしれない。

 

残される人にそんな感情があれば、

やめる人が理由を丁寧に話そうとするほどに、

残される人は続けている自分・続けたい自分を正当化しようと、

やめる人を感情的に批判したくなる。

 

もしかすると、

残される人はやめる人に対して

「きちんとした理由を教えて」

と聞きながらも、

本当に求めているのは、

「何かを失う悲しみをなんとかしたい」

「やめないでもらうための糸口を見つけたい」

とばかり考えているために、

まともに話し合いにならないのかもしれない。

 

 

 

話せばわかるというのは、

相手に多少なりとも話を聞く意思がある場合。

 

中には話を全く聞く気がない人もいる。

 

そんな人とわかり合おうとするのは大変。

 

揚げ足を取る事、相手を叩く事だけを考えている人は、

どんなに素晴らしい話でも

重箱の隅をつつくように

マイナスに受け取って批判を繰り返す。

 

そんな想いをしたくないから、

やめる人の中には、

まともな理由も告げずに会社を辞めたり、

誰かを悪者にするウソの理由をでっち上げたり、

突然連絡を取れなくしたりする人がいるんだと思う。

 

「なんでこんな不義理な事をされなければならないんだろう」

「そんな恨まれるような事はしてこなかったはず」

と人間不信になる人もいるだろうけど、

不毛な話し合いを避けるための防衛手段と思うと

少しは納得できるかもしれない。

 

 

 

結局、やめる人と残される人が

揉めるのは自分の正当化が原因なんだと思う。

 

残される人は

大変な目に合わされる自分を納得させるために、

その原因となるやめる人を叩く。

 

やめる人は自分のエゴ以外に

やめる原因を作るために誰かを叩く。

 

納得しない人を納得させるために、

時にはウソが入って混乱させられる。

 

あまり経験したくないけれど、

それでもそんな課題を乗り越えて

できるだけ相手を傷つけずに円満に別れるために必要なのは、

相手に失わせたと感じさせないような配慮。

 

例えばその1つは、

やめる人がやめても

ほとんど損害がないようにする事。

 

例えば会社をやめるケースで言うと、

「再起不能の病気になって会社に残る事がみんなの迷惑になるので療養のために会社を辞める」

「これ以上頑張っても会社に価値を残せないとみんなに判断されて辞める」

「今後のチャレンジにおいて目の上たタンコブ的な存在である自分がいない方がうまくいく」

などとなればお互いスッキリして会社を辞められる。

 

また、

やめる事で残る人達に今以上の何かを得られると

認識させられるようにするのもアリ。

 

「会社の未来のために自分が連れてきた自分以上に優秀な人に自分のポジションを譲る」

「会社を守るためにやらかしてしまった何かの責任を取ってやめる」

「自分が独立する事によって今の会社・その経営理念に対して大きな貢献ができる」

などとなれば、感謝されて会社を辞めやすい。

 

惜しまれてやめたいという気持ちは

誰にでもあるかもしれないけれど、

そんな事をしてしまうと、

残された人はやめる人に対する依存心を

手放せなくなって逆に揉める事になりがち。

 

きっとそれはプロスポーツ選手が

ボロボロになるまで続けて引退するのか

輝かしい記憶を残したまま

まだできる状態で引退するのかに似ている。

 

良いイメージのまま終わらせたいという気持ちと、

できるだけ迷惑をかけずに敵を作らずにやめたいという気持ちが

うまく両立するところを見出だせるかどうかはわからないけれど、

そこにあるのはそれぞれの人にとっての美学。

 

尊重してあげられる人が、

やめる人・残される人を守る事に繋がる。

 

 

 

続ける事とやめる事。

 

どちらがいいかなんて

客観的にはわからない。

 

それは今の自分・未来の自分が

主観的に判断するもの。

 

それぞれの事情があるのだから、

やめたい気持ちと、

続けてもらいたい気持ちが、

反発しあうケースがあるのも当たり前。

 

それでも、

どちらか片方だけでも、

「そんなあなたの今後ために、私にどんなお役立ちができるか?」

という配慮をほんの少し入れるだけで、

続ける人とやめる人の揉め事は激減するような気がする。

 

与え合いの精神で、

上手なやめ方・送り出し方を実践する人が増えれば、

やめたい事をやめて、

本当にやりたい新しい事に取り組める人は増える。

 

それが巡り巡って、

自分や自分達をより豊かにする事に

繋がるんじゃないかと思うのです。