意味不明

 

最近よくある炎上問題。

 

一部過激な表現はあるものの、冷静に見てみると、

炎上させられる方も、意外にまともな事を言っている場合がある。

 

そんな問題に対してテレビのコメンテーターは、

「犯罪を擁護するなんてありえない!」

「国民を騙すなんてどんな理由があってもけしからん!」

「被害者の気持ちがわかってない!」

などと批判するけれど、これらはすべて感情論。

 

批判されるような人だってバカじゃない。

 

たいてい、悪い事だとわかっていたとしても、

そうせざるを得ない状況に追い込まれてやっているだけ。

 

「もっとしっかりしろ!」と当たり前の事を言われても、

できないからこそ、その現状がある。

 

根本的な原因をほったらかしたまま、

誰もが思うような当たり前の怒りを視聴者に投げかける。

 

コメンテーターの役割は、本来そうではないはず。

 

しかし、難解で複雑な背景を考えるよりも、

わかりやすい感情論で批判する方が、

悪者を糾弾するヒーロー気分を味わえたり、

自分達が正しいという優越感を感じられたりしてスッキリする。

 

 

その気持ちよさを提供して、視聴率を稼ぐために、

コメンテーターは存在しているのかもしれない。

 

目的を曖昧にさせたまま、綺麗事の感情論をぶつける事は、

同じ感情になった多くの人を、承認・肯定する事に繋がる。

 

これが人の「認められたい欲求」を刺激して気持ち良いんだと思う。

 

 

 

これと同じような事が、理念の浸透が薄い会社で、

会社に反発する社員によって引き起こされている。

 

 

「新しい事を始めたい!」

 

と社長や上司が言っても、

 

「新しい事なんて私、やりたくないです!」

「今でも大変なのに、もっと頑張れって言うんですか!」

 

と、感情論で反発されて、議論にさえならない事はよくある。

 

やるべき理由も聞いてもらえず、

どうやったらできるかも考えてもらえず、

本人達がやりたくない理由を延々と聞かされるだけの悲しいやりとり。

 

 

 

理屈で考えれば社長や上司の方が正しい事を言っているはずなのに、

「上司が嫌い!ラクをしたい!」などと思っている

一部の反発する社員によって進まなくなる。

 

「だったらどうするのか?」は考えられず、

根本的な経営課題は少しも解決に向かわないまま・・・。

 

 

経営理念さえも否定してくるような問題社員が、

「みんなの代わりにハッキリ言ってきてやったから!」

となぜか裏で自慢気に語っている事もある。

 

味方のはずの会社の中で起こる不毛な争い。

 

本来なら、反対するにしても、

「その新しい事が、目的を達成する最適の手段になり得るかどうか?」

をベースに議論すべき。

 

しかし、理屈は感情論に飲み込まれる。

感情論で話す人には、理屈で話す人の言葉が届かない。

 

時間をかけて反発する社員の話を聞いても、

「上司が嫌いで、やりたくないって思ったから、やりたくないんです!」

という意味不明な結論である事は多い。

 

まるで異なる言語で話をしているかのごとく、

お互い全く理解し合えずイライラする。

 

しかし、それは反発する社員が、「認められたい欲求」を、

満たされたくてあげている悲鳴なのかもしれない。

 

理屈と感情論は別次元。

 

感情論の「やりたくない」に対して、

「やるべきだ」「やった方が正しい」「メリットがある」と理屈で応えても、

「だからやりたくないって言ってるでしょ!」と思われるだけ。

 

感情論に対しては、理屈ではなく、

「本音を言ってくれてありがとう。」

「確かにそうだよね。もっと詳しく聞かせて。」

と、感情論で応じるしかない。

 

もらう前に与える。与える者は与えられる。

 

だから自分の話を聞いてもらうには、

相手の話を聞いて、受け入れて、

「認められたい欲求」を満たしてあげる事からスタート。

 

 

社員なら従って当たり前のはずの会社の方向性でさえも、

感情論を振りかざす社員に腹落ちさせるには感情論しかない。

 

会社の理想を受け入れてもらおうとするならば、

社員それぞれの理想を聞いて、

その共通点を探す所から始めるべきなのかもしれない。