私がずっと抱えている先生コンプレックス。

 

先生と呼ばれるのも嫌だし、

先生と呼ぶのも嫌。

 

正直、師匠と言える存在に憧れるけれど、

何が正解かわからない時代の中で、

教えられる事は少ないような気がする。

 

できるのはその背中で語る事。

与えられるのは誰かの経験を元にしたヒントだけ。

 

でもそれさえも、いい事かどうかわからない。

 

正解がない子育てで悩むのときっと似ている。

 

「若い頃の苦労は買ってでもしろ」と言われるように、

痛い経験はその人を成長させる。

 

 

今、打たれ弱い人が増えているとはいえ、

失敗をさせない事を目的に、

チャレンジさえさせないようにする教育に疑問を持つ。

 

悩み苦しむからこそ、

わかる事もたくさんある。

 

・イジメられて登校拒否になる。

・受験に失敗して引きこもる。

・貧乏で食べるものさえ困る。

・ブラック企業でうつ病になる。

・社員に裏切られて眠れなくなる。

 

そんな経験があったからこそ、

成功している人がたくさんいる。

 

物語を作っていて、本当にそう思う。

 

苦しかった事ほど、乗り越えた時自信になる。

後で笑い話になる。

 

人生はよくわからない。

 

マイナスに見える事がプラスかもしれないし、

プラスに見える事がマイナスかもしれない。

 

それでも、自分が苦しんだ事を、

子ども・部下にはさせたくないと

過保護になっている人は多い。

 

とても美しい事かもしれないけれど、

自分の苦しみの経験を

マイナスにとらえてしまっている事自体が

もったいないと思う。

 

それは何かの呪縛に囚われ続けているようなもの。

 

痛い失敗ほど、その失敗のおかげで今がある。

 

・借金があったからこそ頑張れた。

・苦しんだからこそ人の優しさを実感できた。

・裏切られたからこそ仲間の有り難みに気が付いた。

 

当たり前にあるものの素晴らしさは、

それをなくす経験をしてわかるようになる。

 

災害のおかげで電気、水道、ガスなどの素晴らしさがわかる。

死をイメージするから生きる素晴らしさがわかる。

 

すべてはきっと捉え方次第。

だから絶対にこれが正しいと、上から目線で

先生を名乗る人に対する嫌悪感がある。

 

そんな私の先生コンプレックスも、

先生という存在がなくなった時、

その有り難みを感じる事ができるようになる。

 

チャレンジさせない事の素晴らしさも、

みんなが本当にチャレンジするようになって

何かの社会問題が起きた時、

その有り難みを感じる事ができるようになる。

 

今、当たり前にあるものは、

名前も知らないたくさんの人のおかげで

享受できているもの。

 

失くして初めてわかる価値。

 

それがわからないからこそ、

何事も否定はできないはず。

 

何もない事が当たり前。

 

ないはずのものが実はある事に目を配り、

当たり前の基準を下げて、

日々謙虚に生きていきたいです。