社員のために、家族のために、お客様のために、

自分が頑張らなければと必死になっている人は多い。

 

自分が誰かのために生きていると

思い込む事で得られる満足感。

 

しかし、それが過ぎると

親切の押し売りに繋がって

お互いを苦しめる。

 

可哀想な誰かを救う事に囚われてしまう

メサイアコンプレックス。

 

責任感の強い人、頑張りすぎてしまう人は、

その傾向にあるような気がする。

 

 

認めたくない人は多いけれど、

無情な事に現実は、

自分がいなくなっても、

思っている以上に何も変わらない。

 

短期的には色々あるかもしれないけれど、

人間そんなにヤワじゃない。

 

1つの会社や組織、家族に依存しなくても、

強く幸せに生きていけるようにできている。

 

そして人は基本みんな優しい。

本気でピンチになった時、

本気で「助けて!」と言えば、

誰かに助けてもらえるようにできている。

 

 

今を幸せと感じられるかどうかは、

まわりの人や環境の問題ではなく、

本人の心の問題。

 

お金がない、仕事がキツい、友達がいない、出会いがない etc。

外から見ると可哀想に見えたとしても、

本人は意外にそこまで思っていない事が多い。

 

そもそも本当に嫌だったら、

本人みずから本気でなんらかの行動をしている。

 

なんとかせざるを得ない状況に追い込まれれば、

誰かにすがりついてでも全力でなんとかする。

 

やり方はスマホで簡単に調べられる。

 

本気で行動していないにもかかわらず、

「誰も助けてくれない!」

と誰かのせいにして文句を言うような人は、

被害妄想に囚われているだけ。

 

誰もが現状を変えられるだけの力を持っている。

 

人生最期の時を穏やかな笑顔で旅立つ人はきっと、

残された人が必ず幸せでいられる確信を持っているんだと思う。

 

 

戻れるならやり直したいと

思った事のある数々の失敗。

 

社員や子供に同じ失敗をさせたくないと、

手取り足取り管理するのはいい事なのだろうか?

 

甘やかされて育ってきた私ではあるけれど、

失敗を経験していない自分を想像すると恐ろしい。

 

勉強したり、行動したりする必要性がないからやる気がない。

今より人の気持ちがわからずに、

天狗になっている状況が簡単に思い浮かぶ。

 

失敗はその時は苦しいけれど、

後で振り返ればステキな経験。

 

酷いと思える人に出会えたおかげで成長する。

苦しかった出来事のおかげで状況が改善する。

 

だから、

失敗しそうな人・失敗した人を見て、

可哀想と思うのは勘違い。

 

可哀想だと思い込んで、

過保護にしすぎると、

かけがえのない成長の機会を奪ってしまう。

 

だから少なくとも、

自己犠牲を払ってまで、

誰かのために生きなくても大丈夫。

 

味方としてそばにいてあげられるだけでも立派な支援。

 

特別な事をしなくても、

何かあった時に相談できると思ってもらえるほどの自分であるだけで、

まわりの人にものすごい勇気を与える事ができている。

 

 

ただ、1つのテクニックとして、

可哀想な人を生み出した方が、

組織を成長させやすくなるのも事実。

 

人によって違う当たり前の基準を、

相手に押し付ければ、

可哀想な人は簡単に生み出せてしまう。

 

・夢を持てない今の子供は可哀想。

・ブラック企業に務める若者は可哀想。

・倒産する小さな会社は可哀想。

・不便な地域に住んでいる高齢者は可哀想。

・儲からない仕事をやっている人は可哀想。

・海外の貧しい人達は可哀想。

 

本当はそうではなかったとしても、

わかりやすい大義名分を作れば、

人の役に立てる喜びを生み出す事に繋がって、

いろんな人を巻き込むエネルギーになる。

 

 

とはいえ、可哀想な人を生み出し続ける事で、

気持ち良さを手軽に味わおうとする行為も、

情報化社会の中でいつか限界を迎えるはず。

 

本来、誰も可哀想な自分になりたくないはずなのに、

利害関係のためにレッテルを貼られ、

可哀想な自分を演じなければいけない人が増えてしまう。

 

本当は困っていないのに、

タダで支援を得るために、

誰かにかまってもらうために、

満更でもない態度を取っている人も多い。

 

 

サポートするのはいいけれど、

主体は本人でなければ、

依存されてしまって不自然な関係になる。

 

何事も自分達で主体的に行動して、

苦労して掴み取るからこそ

本当の喜びがあるはず。

 

 

可哀想な人を助けたい人と、

可哀想でもないのに可哀想になって助けられたい人。

 

今はいびつな需要供給関係のまま、

なぜか成り立っているように見える。

 

 

無理に可哀想な人を作らなくても、

加害者・被害者を作らなくても、

きっとやりがいは生み出せる。

 

仕事は本来とても楽しい事。

 

良心に従って、

自分のためにワクワクする事をやった結果が、

誰かのためになって広がっていく流れは

だいぶ身近なところに来ているはず。

 

 

理屈と感情。

本音と建前。

理想と現実。

 

うまく付き合いながら、

楽しくやっていきます。