「この国(会社)は間違っている!」

「今のトップはアホだ!」

「こんなイジメ・犯罪をする奴はおかしい!」etc、

今ある問題を非難し、

関係者を糾弾しようとする人はよくいる。

 

それは正しい事なのかもしれないけれど、

たいてい問題解決から遠ざける方向に、

向かわせてしまっているような気がする。

 

というのも、

具体的解決策の見えない問題に対する怒りは、

憎しみ、争い、疑心暗鬼を

生み出し広げる事に繋がりやすいから。

 

 

例えば、

「あの国(人)は怖い!危険だ!」

と声をあげて不安を煽ってしまうと、

強制、拒絶、制裁、罰則etc

攻撃的で短絡的なわかりやすい手段に行き着きがち。

 

そんな手段は解決でもなんでもなくて、

根本的な原因から目を逸らしフタをしているだけ。

 

こちらにはこちらの正しさがあって、

相手には相手の正しさがある。

 

こちらが正しいと

相手に認めさせようとする行為は、

相手の強い反発に繋がる。

 

勝者・敗者を作るような解決手段は、

勝者の心を一時的に満たす事はあるかもしれないけれど、

敗者の心にしこりを残し、またいつか爆発する。

 

たとえ法律的にこちらが正しいと言ったところで、

法律を守らなかった方だって、

破らざるを得ない背景があるので、

罰則を強化しようが課題はなくならない。

 

それは、

窃盗・強盗をさせないよう警備・罰則を強化したところで、

窃盗・強盗をしないと生きていけない人達がいる限り、

何をしても窃盗・強盗が繰り返されるのと似ている。

 

 

理想的な課題解決のゴールは、

互いの正しさを認め合い、

どちらも正しくて、どちらも勝者として、

自然にうまくいかせられる形。

 

それは、

マイナスをゼロにするような対処的なアプローチではなく、

革新的な手段(テクノロジー)によって、

マイナスをプラスに変えてしまうようなアプローチ。

 

悪いと言われていたものを無理やり良くさせようとするのではなく、

悪くならざるを得なかった原因を

根本から取り去ってしまうような創造的な解決策。

 

 

 

 

「優秀な医者は患者を不安にさせない」

と教えてもらった事があるけれど、

悪いものを悪いと伝えるだけではあまり意味がない。

 

それを踏まえて、どうやったら良くなるか

具体的に考えて提案・実践する事に意味がある。

 

同じように、

「あの国(人)は怖い!危険だ!」

と不安を煽るエネルギーがあるのなら、

「あの国(人)は何を考えているかわからないから、もっと知りたい!調べたい!話を聞きたい!」

と、具体的な解決策を探すために動くエネルギーに変えた方が、

前向きで面白くてカッコいいはず。

 

どうしたらいいかわからないなら、

どうしたらいいか聞けばいい。

 

一人でできないなら、

「一人ではやり切れないから助けて!」

と声を上げればいい。

 

 

そうすれば誰かが助けてくれて一歩前進する。

 

 

 

誰かをアホだと糾弾したくなったとしたら、

それはたいていその対象の人がアホという訳ではなくて、

そうせざるを得ない理由があるからそうしているだけ。

 

その理由を知らないから、

調べていないから、

腹を割って話を聞いていないから、

アホに見えてしまうだけ。

 

現実的にできるレベルで、

具体的かつ論理的で斬新な解決策を提示できるなら、

彼らは意外に話を聞いてくれるし、

時間はかかるかもしれないけれど国も会社も動く。

 

ただ、そもそも本気でそういう提案をする気概がある人は、

「俺の話を聞け!」と言うだけではなく、

既に具体的に動いて何かを実証しているはず。

話を聞きたいと思わせるだけの何かを生み出しているはず。

 

もっと言えば、

そのくらいの力のある人ならば、

国や会社に頼らずとも

自分達で課題解決してしまおうと動いているはず。

 

国・会社がアホだと思うなら、

国・会社になんとかしてもらおうとせず、

その代わりに自分達でなんとかしてしまう方がワクワクする。

 

実際に、

社会起業家や革新的な企業が、国に頼らずとも社会的課題を解決したり、

一部の情熱のある社員が、上司に頼らずとも会社の課題を解決したり、

そんな事例はたくさん出てきている。

 

社会的課題を他人事にせずに

自ら解決しようと動く

カッコいいチャレンジャーはたくさんいる。

 

 

不安・不満を撒き散らす人の心の奥にあるものはきっと、

自分ではどうにもできないという諦めの感情。

 

国や会社の課題を解決しようと動いてきた人・動いている人の

存在を知らないのかもしれない。

自分もそうなれる事を信じられないのかもしれない。

 

もしくは、課題の解決なんてどうでも良くて、

自分の不安・不満を慰めて欲しいのかもしれない。

頑張ったけれどどうにもできなかった自分を認めて欲しいのかもしれない。

寂しくてかまって欲しいだけなのかもしれない。

 

 

ただ、少なくとも、目の前に見える課題に対して、

自分が関わってなんとかできると思えていたら、

明るく前向きでいられるはず。

 

 

チャレンジする事を楽しめないのは、

国や会社の課題に対して、

他人事と思ってしまっているから。

 

世界=私たち、国=私たち、会社=私たち。

 

そう思うと、

自分が役に立てる

いろんな可能性を見出せるようになる。

 

争っていたはずの人さえ、

味方に思えるようになる。

 

どうしてもそう思えないのであれば、

”私たち”と思えるような、

会社・組織・コミュニティーを探す事が第一歩。

 

 

私も、国の一員として、

困難と思えるような社会的課題の解決向けて

チャレンジしている人のありのままの姿を取材する事。

それをもっとうまく発信していく事。

 

もっとワクワクして、もっと元気を与えられるような、

具体的な形を追求していきたいです。