一般社団法人日本お金道協会 理事長 北岡 恵子

1.転勤続きで言葉の壁に悩まされた学生時代

名古屋生まれ、静岡育ち。父は製薬会社の社員、母は専業主婦。兄と妹と弟との6人家族。何不自由ない暮らしが急変したのは、小学校3年生の時。それは父の転勤で福岡に行った事がキッカケだった。

 

福岡に行くとまわりの人がとても厳しく見えた。それは言葉の壁。ちょっとした方言やイントネーションの違いによって、クラスメイトの言葉が私にとって冷たく聞こえた。家族全員が言葉の壁に悩まされ、傷ついた。

 

転校して馴染めない毎日。1年くらいは何を言っているのか意味がわからず、そして私の言葉も通じない事が多くて大変だった。身にしみてわかった言葉の大切さ。

 

1年経って博多弁を流暢に使いこなせるようになって、なんとか乗り越える事が出来たけれど、学校でいじめられていると親にも言えず、明るいフリをしていたのが辛かったのを覚えている。

 

そんな私が通っていたのは図書館。誰かと話すよりも、本を読んでいる時、心が落ち着いた。また中学校に入ると水泳部に入った。泳ぐのが好きで、泳いでいる間は楽しくいられた。

 

福岡にいた6年間は、それなりに楽しくはやっていたけれど、辛かった思い出が多い。

 

そしてまた中学校3年生になると三重県に引っ越し。今度は福岡弁で三重県のクラスメイトに言葉が通じなくて苦しんだ。

 

今、標準語をよく話すようになったのは、この時の言葉の壁の苦しみからかもしれない。辛かった。もう引っ越しは嫌だ家族の想いを受け入れて、父は家を買って三重にずっと住む事を決断してくれた。

おかげで、その後穏やかな生活を送る事ができている事をとても感謝している。そのくらい私にとっては言葉の壁に悩まされた学生時代だった。

 

そして私にはもう一つ、コミュニケーションの悩みがあった。

 

私は昔から人と違うことを考える事が好きで、今で言うスピリチュアルな世界にハマっていた。それはきっと時々家に来てくれたおばあちゃんの影響。

 

家族みんなにとって気味悪がられていたけれど、私はおばちゃんの話が大好きだった。話を聞く度に涙が出るくらい感動した。なぜなら私にとっておばあちゃん以外に、共鳴できる人がいなくて孤独だったから。

 

家族にも友達にも気味悪がられる霊の話やなんとなく聞こえてしまう心の声。わかってもらう事ができない寂しさを取り除いてくれたのはおばあちゃんただ一人。

 

言葉の壁と、感じた事を誰にも言えずに封印せざるを得なかった寂しさ。私が今、こうして本や講演、勉強会などで伝える喜びを感じているのは、昔から溜まりに溜まった伝えたい欲求が爆発しているからかもしれない。

 

2.ステキな旦那との出会いと、不妊治療に苦しんだ専業主婦時代

そんな私も、20歳で家政科の短大を出て大手メガネ店に就職した。しかし仕事は楽しくなかった。転職したいと思っていたところ、当時よく通っていた「自然食品の店アニュー」が気に入って、心の声に従うかのように転職を決めた。

 

自分が愛用する商品をお客様に勧める仕事。商品の事も詳しくなり、とても充実していた。しかしそれも5年経って、会社がネットワークビジネスを始めた事でおかしくなった。化粧品・洗剤・シャンプー・食品など、毎月のように課されるノルマ。私自身が売る事はできても、組織のメンバーを増やして売ってもらう事は私にはできなかった。

 

それでも売り捌かなければいけない商品は増えるばかり。恐怖に脅かされて、結局自分でそれを買い取るしかなくて、自宅には100万円以上の在庫を抱えることになった。

 

部屋中は在庫だらけ。うつ病みたいになる私。それを見た家族はさすがに心配になったようだった。

 

結局最後は「もうやめた方がいい」と家族が私を助けてくれたおかげもあって、逃げるように会社を退職。その後、会社が倒産した事を思うと、そこで辞められて私は幸せだったのかもしれない。

 

ここでの退職は私に出会いをもたらした。27歳、心身ともに病んで学童保育の先生をやっていた時に、紹介で出会った今の旦那とたった1ヶ月半でスピード結婚。28歳で娘を出産した。

 

専業主婦になった私がこだわったのが家。シックハウス症候群だった事もあって、普通の住宅メーカーに依頼するような家ではどうしてもダメだった。

 

三重県産の木を森の中から1本1本選び買い、3年がかりで私が設計に携わった理想の家を完成させた。三重県の木材推進委員のポスターになったり、テレビも3社来たりするほどのステキな家で、大好きな旦那・娘と暮らす事ができて幸せなはずだった。

 

しかし私はずっと苦しんでいた。それは「次は男の子を」と期待されたのにもかかわらず、ずっと妊娠できなかったから。

 

不妊治療をしても妊娠できない。生理が来るたびに自分を責め続けた。妊娠も出来ないのは女性ではないと悩み自分を否定する毎日。

 

途中3年くらい外部ライターとして新聞記者の仕事をした時もあったけれど、旦那に年間100万円くらいかかる不妊治療のお金を出してもらっているのに妊娠できず、夫婦仲はドンドン険悪なものになっていった。

 

3.死を意識した子宮摘出手術と不妊治療からの解放

 

結局、不妊治療が続いた10年間、私はずっと苦しみっぱなしだった。そして最後は子宮筋腫が酷くなり、救急車で運ばれた。42歳、子宮摘出手術で私の妊活は強制終了させられた。

 

手術は医者に死ぬかもしれないと言われていた事もあって、私は死を意識していた。写真を整理して、遺書を書いて、もう帰れなくなってもいいと覚悟して臨んだ。

 

無事成功。

 

結局2人目の子どもは産めなかったけれど、そんな私に対して旦那は、生きているだけで喜んでくれた。

 

この経験のおかげで私は変わる事ができた。

 

旦那はずっと見守ってくれていたのに、私は旦那を責めていた。私が勝手に出産する事、妊娠する事が期待に応える事だと思い込んでしまっていただけ。出産しなければ認められないと思っていたのは私だけだった。

 

たくさんの人が見守ってくれていた。生きていてそこにいてくれるだけでいいんだと言ってもらえて、愛されている自分に気が付く事ができた。

 

生かされている喜びを味わい、不妊治療の苦しみからも解放された私。今まで子どもを産めなければ価値がないと、勝手に他人軸で生きていた私。他人にどう思われるかではなく、自分の人生を好きなように生きていいんだと思えた瞬間、目の前が明るくなったような気がした。

 

 

4.お金の道の探求。将来の夢。

 

その時パッとひらめくように出てきたやりたい事がお金の探求。なぜなら私が生きる事ができたのはお金のおかげだったから。今まで旦那にもお金にも、感謝の気持ちなんてなかった。あなたの子どもを産んであげるんだから、お金は出してもらって当たり前くらいに思ってしまっていた。

 

しかし、今まで1000万円近く支払ってきた出産のための投資をムダにしてしまった事が、私をお金に向き合わせることになった。ものすごくバカな事をしてしまったと反省したと同時に、そこで初めてお金の価値を再認識する事ができた。

 

私を助けてくれた病院。そしてどんなサプリメントよりも私を元気にしてくれた輸血。請求書を見ると400ml25000円。他人からもらった血で生かされている感覚があった。

 

今まで使えるからとなんとなく使っていたお金だったけれど、命とお金は繋がっていた。お金によって生かされた命。今まで不平不満を言いながら当たり前に使っていたお金に対する悪い想いが一気に吹っ飛んだ。夫婦仲が悪かったのもお金に振り回されて来たのかもしれない。

 

それに気が付いてから、私はお金に話しかけるようになった。するとお金は「自分との付き合い方なんだよ」と教えてくれたような気がした。そんなインタビューするかのように書いた本が「感謝感謝のお金道」。

 

新聞記者時代に学んだ力が役に立って、たった3日で本を書き上げた。心赴くままに本を出そうと勝手に決めて少しずつブログで発表したら、すぐに1000アクセス。反応も良くベストセラーになると思った。8月に書き上げた本が、あれよあれよと言う間に11月には出版社が決まり、3月には出版。

 

そして44歳、本を出しましたと伝えたいと思ったのが、社説で有名な、みやざき中央新聞の水谷さん。知り合いでもなかったけれど、本を送ると「こんな面白い本はない!」と社説に載せて宣伝してくれた。

 

そして「ものすごく面白いからラジオに出るべきだ」と言われて出演させていただいたのが神戸のgigFM。そこでラジオの面白さと、ラジオパーソナリティーになりたいと思っていた昔の夢を思い出して紹介されたのが「ゆめのたね」。

 

今ではゆめのたねパーソナリティーとしての活動をしながら、本の出版を続け、講演活動も行う事ができている。

 

退院してから、何者かに後押ししていただいているとしか思えない事ばかり。何もない主婦からのスタートでたった3年。こんなことになるなんて思いもしなかった。驚愕と感謝の気持ちで一杯になる。

 

さらに友達から、どうしても会わせたい人がいると紹介されて滋賀に会いに行ったのが、お金の留学をテーマに講演中ずっとニコニコ話をしている先生。お金道と言う本を書いている割に、お金の事を全く知らなかった私に、海外投資のイントロデューサーとしての仕事も紹介してもらえる事になった。

 

最初は私が投資をする事に反対だった旦那も、明確に実績を出せた事で今では協力者として会社を辞めて、お金のカウンセリングと海外投資を紹介する仕事を一緒にする事ができている。

 

現在45歳、私の夢はお金を通じて人生と向き合う機会を広める事。自分の人生と向き合う事は難しい。私も死を意識した手術のおかげで人生と向き合う事ができたけれど、普通の人にはなかなかそういう機会は少ない。

 

それを気軽にできるようにするためのツールが、私たちの生活の中でも一番身近なお金だと思っている。

 

お金との付き合い方は自分との付き合い方。お金の事が嫌いな人は、自分の事が嫌いな人。お金としっかり向き合えている人は、自分ともしっかり向き合えている人。お金に対する考え方をクリアにさせる事で、自分にとっての理想の生き方についても整理されてくる。それが私のやりたいお金道。

 

今、講演活動をしたり、ラジオをやったりするのも、そのための活動の一環。日本人はお金の話をとても嫌がる。マネー教室と言うだけで敬遠される。その状況を改善したい。

 

対象はお金に縛られている事にさえ気が付いていない人。ワクワクする形でどう伝えて行くか?

 

「人生の話をしよう!」と言うとなかなか話せない事でも、人それぞれが持っているお金に対する認識についてなら、もっと気軽に話し合う事ができる。そしてそれを通じて、人生がより豊かなものになっていく。

 

これはいわばマネーカウンセリング。お金の本質が間違って伝わってしまっている事に対する違和感を解決したい。お金は私たちが好きだと思っている以上に、「あなたのことが大好きだ」と言ってくれていると私は感じている。

 

私の命を救ってくれたのもお金。私の人生を素晴らしいものに変えてくれたのもお金。その素晴らしさに気が付ける場を創造していきたい。それが今、新しく構想している「お金の学校」。

 

お金の儲け方や、経済の話をしたいのではなくて、ただお金に対する個人個人の考え方を話し合って、自分なりの考えを整理する場。統計学である紫微斗数に基づいたマネートークディスカッションと、お金と上手に付き合うための勉強会をセットで定期的に行っていきたい。

 

これもまだ試行錯誤の段階。形は変わっていくかもしれないけれど、それもお金道。柔道・剣道と同じように、お金にも道がある。その道の先には、きっとみんなが自分の人生を幸せに生きられるような新しい何かがあるはず。そう信じている。