農事組合法人 四日市ふるさとファーム 代表 森 一知

 

 

1.中国に憧れた学生時代

 

四日市生まれ四日市育ち。

父は金属リサイクルの会社を経営し、比較的裕福な家庭。

放任主義で、興味がある事を自由にさせてくれた。中でも「子ども劇場」という演劇を鑑賞するNPOに入会させてもらえたのが僕の原点になったかもしれない。自分がやりたいイベントで周りを巻き込んで自由にできる事を学んだ。

 

これが「大人になったらやりたい事はなんだろう?」小さな頃から考えさせられるキッカケになった。なんとなく勉強して、なんとなく普通のサラリーマンになるのは嫌だった。

 

そんな中で僕が興味を持ったのが中国だった。中国で暮らしていた祖父から、その歴史・文化について伝えられていた事もあったけれど、中国に行くと僕を決意させたのが、さだまさしが中国を旅するドキュメンタリー映画「長江」だった。

 

初めて見た時、大きな衝撃が走った。仏教遺跡の歴史の深さ、全く異なる文化・環境・食べ物。何十メートルもの石仏がある風景。どれもが今までの常識と異なっていて圧倒された。とはいえ、当時は中国に行きたくても、中国への渡航許可が出ないような時代。ハードルは高かった。いつか留学できるようになるはずと、そのタイミングを待つかのように大学受験をしないでも、エスカレーターで進学できる名城大付属高校に進学した。

 

四日市から毎朝、名古屋にある高校に通う毎日。つまらない訳ではなかったけれど、正直退屈さも感じていた。そんな中でも刺激的だったのが、毎朝、隣の家に住む、青年団のお兄さんとする電車の中での会話だった。

 

そのお兄さんは、社会を変えるための夢を持って行動していた。ただつまらなさそうに仕事をしているサラリーマンと違った。僕も早く大人になりたい。そう思うようになっていたところ、高校3年生の時、その青年団のお兄さんが毎日のように「中国はいいぞ〜」と日本・中国青年親善交流である「青年の翼」の参加を勧めてきた。

 

ちょうど受験シーズン。20万円もする渡航費用。高校3年生の僕には参加できないはずだった。それでも「お前にはそんな勇気なくて決断できないよな〜」と僕を焚きつけるお兄さんにイライラしてきた。

 

売り言葉に買い言葉で「そこまで言うなら申込書持ってこい!」と啖呵を切って申込書を書いた。まさか選ばれるとは思っていなかったけれど、無事メンバーに選ばれた。

 

2週間学校を休んでアルバイトをしてなんとか20万円を貯めて7泊8日の旅費を貯めた。しかも受験前。学校を休む事を許してくれた両親もすごかったかもしれない。

 

初めて行く憧れの中国。25人のメンバーの中で高校生は僕1人だけ。とても刺激的だった。色々な地域を回って中国の青年と交流しディスカッションを行う毎日。文化の違いを知り、本音を語り合える事も素晴らしかったけど、それ以上に刺激的だったのは、青年団の先輩達のカッコいい生き方。

 

毎夜、新鮮で刺激的な各地区のリーダーの話を聞いた。その中にはお金のために仕事をしているような人は1人もいなかった。誰かのために、地域のために、大きな夢を持って仕事をしているような人達。その生き様に感化され、僕もそんな生き方がしたいと思った。

 

青年の翼から帰って来る頃には、大学に進学するという選択肢は消えていた。大学に行ってやりたい事をやらずに勉強をしている時間が勿体なかった。もっと誰かのため、地域のための仕事がしたい。そう思って、コネを辿って高校卒業後すぐ、青年団の職員として伊勢に住み込みで仕事をした。

 

2.未経験ながらシェフとして中国へ

 

何もわからない18歳。それでも必死に下働きをした。給与なんてお小遣い程度しかもらえなかったけれど、三重県中の青年団の職員に会いに回って話を聞くのは楽しかった。三重県中に友達ができて、接待してもらった。2年働いたら、中国に留学に行かせてやるとまで言ってもらえていた事もあって、ワクワクしていた。

 

お金はないけど夢があった。何度も怒られる事はあったけれど、誰よりも仕事を頑張ってきた自負はあった。

 

しかし、それも19歳、中国留学の手前で頓挫してしまう。

 

理由は代表との喧嘩。中国留学の準備として、中国語の本を自宅に持って帰って勉強していたのを、代表は窃盗だと勘違いして僕を責めたのがどうしても許せなかった。1年半もほぼ無給でずっと一緒に働いて、それなりの貢献をしてきたはずなのに、僕が窃盗をするような人間に見られていたなんて信じたくなかった。

 

もう少し待てば留学できるはずだったものを手放して、実家に戻った。しかしそれもまた縁。しばらくすると、運よく新しいチャンスが巡ってきた。

 

それは友達のお父さんが中国に日本食レストランを出すと言う事で、何度も中国に行っていた僕に声がかかった事。当時の日本人で、中国で働きたいと思っているような人間は、僕くらいしかいなかったからかもしれない。1990年、22歳の僕は即答でOKした。そして本当にすぐ中国に行く事になった。

 

料理も何もできない僕。持ち物はカバンと4種類のカレー粉だけ。これなら大丈夫と思えるカレーが作れるかも不安だったけれど、なんとか作る事ができて店のオープンにこぎつけた。とはいえ、当時の中国の物価は安すぎた。中国の月給平均が1500円程度なのに対して、1杯60円のカレー。現地の人には高すぎて全然売れなかった。

 

なんとかしなければと僕が狙いを定めたのが、当時北京に1500人くらいいた日本の留学生。チラシを配って、何人かと仲良くなって、それからは口コミですごく広まった。日本の歌が流れていて、冷たい水とおしぼり、エアコン、日本語メニューがある店は当時、僕が勤める店だけだった。

 

しかも、留学生は東京大学、京都大学、早稲田大学、慶応大学に通っていたようなすごい賢い人ばかり。60円でも飛ぶように売れた。ゼロから立ち上げて成功させる充実感。最高だった。この時の成功経験が、僕が新しい事を楽しめるようになった原点かもしれない。リスクを背負ってチャレンジする気持ち良さを知った。

 

しかしそれも24歳の時、中国人店長との喧嘩が理由で退職する事になった。

 

お店のために口コミでお客様をドンドン紹介してくれた各大学の応援者50人限定の感謝パーティー。ほぼ原価ギリギリでのパーティーを行う意味が当時の中国人店長にはわかってもらえなかった。誰のおかげで今の売上が作れているのか、どれだけ協力してもらえているのかという人間対人間の付き合いの意味がわからないその店長。売り言葉に買い言葉で話にならなかった。

 

「店長と一緒に仕事をしたくない。」

オーナーに店長を代えてもらうよう言ったけれど、わかってもらえなかったので僕が辞めるしかなかった。それでも、客を付けて、料理も教え、引き継ぎをして、最低限の仕事は果たしたと円満退社。

 

そのまま中国に残りたかったけれど、ビザの問題があった。そのため留学を申し込んだものの紹介状がないために入学できなかった。しかし、それも縁のおかげでなんとかなった。

 

間に入ってくれたのは、国際交流センターの事務局をやっていた中華青年連合会のメンバー。「困ったことないか?」と聞いていただいたので留学で困っている旨を話したら、学校担当者の態度がガラリと変わって、翌日午後には北京師範大学に2年間留学できる事が決まった。

 

最初は寮の部屋がないからと言い訳されたけれど、その部屋もすぐに案内されて無事入学。

 

しかし、僕はほとんど学校に行かなかった。なぜなら寮で日本人留学生のご飯を作ったり、留学生宿舎で100円のランチを売っている方が楽しかったから。次第に学校にいくのが億劫になった。僕が学びたかったのは、言語ではなくて、中国の人の生活・文化。まさに学校外での交流がそれだった。

 

ディスコに行ったり、ギターでコンサートをやったりした。学校を休んでシルクロードを一周もした。まさに青春を満喫する学生。しかしなぜかクラスメイトや先生には嫌われなかった。月1回、たまに学校に行けば、みんなに拍手で出迎えられるくらいの学生だった。

 

それも僕が縁を大切にして、人の困り事・頼まれ事を積極的に引き受けていたからかもしれない。先生に学校に来なくなった生徒のサポートを依頼されたり、友達からレストランの立ち上げを依頼されたり。結局、日本食レストランを3店の立ち上げに関わった。

 

学校には行かずにひたすら現地の人と関わって、仕事・遊びを楽しむ生活。楽しかった。しかしそれも3年間だけ。北京師範大学の後に入学した北京大学2年目で、「僕みたいに仕事しながら学校行く人を許してしまうと学校が成り立たなくなるから」という理由で学校を辞める事になった。

 

27歳、いつか中国に戻ってくるからと、自分で立ち上げた日本食レストランを友人に譲って日本に戻った。しかしそのまま中国に戻る事はなかった。

 

3.日本でのチャレンジとふるさとファームとの縁

 

僕が中国で仕事をして学んだ事。それはお金と営業力さえあれば仕事はできるという事。だからこそ、日本で仕事を通じて、もっとお金と営業をもっと学ぼうと思った。ドンドンと新しい事にチャレンジしたかった。その場所で1番になったら次々と転職を繰り返した。

 

1社目はノンバンクの金融機関。1年半でトップセールスマンになった。次は不動産会社にスカウトされて1年半でまたトップセールスマンになって転職。3社目はリフォーム会社。そこでも1000万円の契約を取ってトップセールスマンになったかと思いきや、そのお金を社長が持ち逃げした事で会社が大変な事になってそのまま退職。それでも、チャレンジは止まらなかった。

 

次は今度もっと厳しい仕事を体験してみたいと運送会社。それもトップになったら、今度はパチプロ。色々やったけれど、パチプロ時代が月120万円稼ぐ時もあったくらい、朝から晩まで一番長く働いて一番稼いでいた。

 

しかし、両親はそう思わなかった。パチプロとして遊んでいるからと心配になったようで、父の知り合いを通じて議員さんの選挙車運転手として働く事になった。しかし、それもいい縁だった。

 

給与はいらない代わりにと、ウグイス嬢との食事代をもらって、毎日のように一緒に食事をして、ウグイス嬢に気持ちよく働いてもらえるようにトコトン気を配った。そこでの貢献が認められ、ウグイス嬢から「あの子、秘書にした方がいい」と推薦してもらって、そのまま議員秘書になった。

 

そこで、地元の活動に絡んだ事が今のふるさとファームやまちづくり協議会での活動に繋がっている。34歳から議員秘書を6年やって、落選を期にその後、40歳で四日市ふるさとファームを作って独立。そこから今は9年目。

 

それもすべてが偶然の縁によってもたらされたもの。四日市ふるさとファームも、趣味であった亀の飼育のために、無農薬の小松菜を作ろうと小さな畑を貸してもらった事が農業に目覚めるキッカケ。無農薬の野菜は腐らない事実を目の当たりにして、有機野菜で一番になろうと取り組んでいる。

 

また今、別で力を入れている子供食堂も、お世話になった人にまちづくり協議会に誘われた事がキッカケで、総務委員長に抜擢されて今に至っている。

 

キッカケは些細なものでも、何でも本気になって取り組めば、達成した時の充実感はたまらないものになる。目の前に困っている人がいればお手伝いをする。それをトコトンやるだけ。僕の人生はずっとそれで回ってきたのかもしれない。

 

4.将来の夢。まちづくり・人づくりで幸せな人を増やしたい!

 

 

今、僕が気になっているのが、昔はあったはずの人間関係が希薄になっている事。人と人が繋がっていれば、どんなに貧しくても心豊かでいられる。それは中国でたくましく生活する人たちと絡んできた事もあるのでとてもよくわかる。

 

うまくいかないと散々非難されてきた子供食堂や、最近始めた子供の寺子屋も、地元でもなく知り合いもいない中でも、人との繋がりのおかげで、ドンドンと縁が広がっていくような仕組みができてきている。

 

これを継続させる事、モデルケースにして色々なところに広める事ができれば、もっと地域の縁が広がり、心が豊かになっていくようになる。今まで地域のまちづくりに何もかかわっていないような若い人を巻き込みたい。

 

そして、さらにこれから、僕はまた新しい構想を持っている。それは5年後に衣食住、10年後にはすべてが無料の街を作る事。

 

色々あったけれど、すべては人の縁から始まる。トコトン乗り込んで、トコトン楽しめば、それにつられるように人が集まってくる。それでまた縁が広がって、さらにみんなで楽しめるようになる。

 

ただこれの繰り返し。それがとても楽しい。

 

このまちづくり構想もきっとうまくいく。そう信じている。