株式会社WCS 代表取締役 小栗 徳丸

 

 

1.スーパー外交員の祖母に憧れて早く自立したかった学生時代

 

名古屋生まれ、名古屋育ち。サラリーマンの父と専業主婦の母と妹。さらに祖母と曽祖母を加えた6人家族。どこにでもあるような普通の家庭。

しかしそれがある日突然崩壊したのが幼稚園の時。父が交通事故を起こして服役。躁鬱病になったのだ。

父はほぼ入院状態。家に帰ってきても自殺未遂をしてまた入院する事の繰り返し。

急に怒り出したり、お金もないのに奢りまくったりで手をつけられなかった。

 

それでもなんとかできたのは、父方の祖母が保険のスーパー外交員で裕福だったから。

子供心に僕は祖母のようにお金持ちになって、母を守りたいという想いが強くなった。

 

小学校時代、父と遊んだ記憶はなかったけれど、母は教育熱心だった。

書道教室・絵画教室・ピアノ・エレクトーン・学習塾などいろんな習い事に行かせてもらった。

僕も自立しなければという思いが強かった事もあって一生懸命だった。

祖母みたいにお金儲けをしたかった。

 

それが現実となったのが中学校の時。

『中二コース』という雑誌で見た誌面企画にたまたま応募。

するとデビューしたばかりのアイドルとテレフォンデートできることになった。

そこで親衛隊を作ると啖呵を切ってしまった僕。

アイドルとの約束を果たすために大手芸能事務所に電話した。

すると話が進み、会報誌に大きく掲載もされ、全国から数百人もの人が集まった。

自然な流れで僕が親衛隊のリーダーになった。

 

それから第一線として活動していたこともあって、大きな利益を手にすることに。

会の維持費やメンバーへの報酬を支払っても、親衛隊のハチマキや名刺を作るだけで何万円と儲かった。

大手芸能事務所と懇意になって、中学生にして20〜30万円の月収。

 

これだけ稼げれば成人しなくてもなんとかできる自信がついた。

「2人が成人するまでは離婚しない!」と譲らなかった母ではあったけれど、そのおかげで僕も強く説得できるようになった。

そしてついに中学校3年生の時に離婚が成立した。

 

家庭は次第に明るくなった。

自分たちのやりたい事が出来るようになった。

高校受験をキッカケに親衛隊は辞めたけれど、コンサートの演出などは僕にとって魅力的だった。

いつかこんな仕事に就きたいと思った。

 

母と妹の2人は和歌山県の田舎に移り住み、僕はデザイン科の高校に通うために、母方の祖母の近くにある離れに一人暮らし。

毎日が楽しかった。

 

苦学生扱いだった僕は奨学金をもらいバイトに明け暮れた。

お金を稼ぎ、バイク・ディスコ・タバコなど遊びまくった。

当たり前のように僕の家は地元の悪友の溜まり場になった。

 

学校後、毎日のようにバイトをして夜遊び。

夜遊びが学校にバレて停学になる事もしばしば。

最後は自主退学させられそうになるほどだったけれど、「学年10位以内に入ったら高校卒業させてやる」と言う先生との約束に、最後学年3位の成績で応えて無事卒業。

やればなんとかできるというのはその頃に体得していたような気がする。

 

僕が憧れたクリエイティブな世界。

好きで得意だと思っていたけれど、それは井の中の蛙だった。

憧れていた東京芸術大学に行くような人たちは全然違った。

頑張っても届かないレベルの差がわかるくらい、他の受験者のデッサンのスピード感・うまさは段違いだった。

1年浪人したけれど、それでも届かない事がわかって挫折した。

 

就職も考えたけれど、逆らえない祖母の勧めで専門学校に進学。

しかしそれは高校の授業の焼き直し。全然楽しくなくて、ひたすらアルバイトに打ち込んだ。

 

いろんなアルバイトをする中で出会ったのが便利屋。

引っ越し、運転手、蜂の巣退治、犬の散歩etc、日替わりでやる事が違ってものすごく刺激的だった。

全く知らない人の家庭に上がり込んで、コミュニケーションを取るとリピートになったり、チップをもらえたりして、選んでもらえている感がたまらなかった。

時にはおじいさんと日本刀を一緒に磨いたり、お見合いを断るためにお姉さんの彼氏代行をしたり、世の中にこんなに手伝ってもらいたい事が溢れているんだと、自分が知らないニーズを知る事ができた。

 

しかも当時は時給500円が相場なのに、僕の時給は1200円。

学校以上に魅力的な仕事。

専門学校はお金を払ってくれていた祖母のために卒業するくらいで、僕にとってはアルバイトの方が魅力的に思えた。

 

早く社会に出て仕事がしたかった。

 

 

 

2.職人の世界で揉まれた社員時代。マンモスフリーマーケットの大成功による光と影。

専門学校を卒業し、コネで舞台演出・舞台装飾などの裏方の仕事をするイベント製作会社を紹介してもらえた。

当時社員10人くらいの名古屋の会社に1990年、新卒入社。しかしそこはある意味ヤクザの世界のような職場だった。

 

パワハラ・徹夜は当たり前。給与も10万円くらいしかもらえない。

すぐ辞めたくなるくらいの仕事だったけれど、辛くても石の上に3年と祖父の言葉が思い浮かんで辞められなかった。

ちょうど入社を決めた日が、好きだった母方の祖父が亡くなった日だったせいもあったかもしれない。

歯を食いしばって頑張った。

この時の頑張りが今の僕の自信になっているのだろう。

 

 

厳しい会社ではあったけれど、理不尽ではなかった事が救いだった。

会社ではいつもどの規模のイベントを仕切れるかを問われた。

どこまでのイレギュラーに対応できるか?屋外イベントでの雨天対策、想定外の人数が来た時の対応の質。

先輩たちはプロでカッコよかった。

いつも「ど素人か!」と怒鳴られたけれど、怒鳴られる理由が明確であったため反骨精神で頑張れた。

半人前の自分をもっと成長させたくて食らいついた。

 

そして3年経つ頃には、自分指名で仕事をくれるクライアントと繋がりができ、大規模イベントも仕切れるようになり、クリエイティブな提案もできるようになっていった。

 

会社の中でも頭角を現すようになった事で、クライアントだったテレビ愛知から、「ウチに来ないか?」と誘っていただけた。

それは僕にとって嬉しい話だった。

なぜなら今までは受託側で、予算もある程度の内容もすべて決まっていたけれど、新しい仕事は、何をするか・いくら使うかまで、自分の裁量で自由に決められたから。

 

渡りに船で24歳で転職を決めた。新しい部署の立ち上げメンバー。ワクワクした。

 

入社してからも毎日が楽しかった。

さらなる転機は入社2年目、1年がかりで会社を説得してスタートさせた「マンモスフリーマーケット」が大成功を収めた事。

それは当時、国内最大規模の個人フリーマーケット。

しかもアーティスト等を出演させる興行とは全く違うアプローチ。

テレビ局が自社CMをフル活用して一般出店者を募集することも、視聴者が主役になる事も、入場料を取るという事も初めて。

それが1回で数千万円もの利益を出せた事もあって「小栗の出す企画だったらなんでもやらせてみよう」という雰囲気になった。

 

それから全ての企画において、止められた事が一度もなくなるほどになった。

まさに有頂天。役職もドンドン上がった。

しかし楽しかったのは最初だけ。

反骨精神で頑張ってきた僕にとっては、順調すぎて気持ちが落ち着かなかった。

お山の大将的で刺激がなく、「儲かるイベント製造機」になってしまっているような気がした。

 

 

 

3.人生の転機となったアメリカ一人旅。刺激を求めて電子マネー推進事業の立ち上げへ。

30歳を超える頃には、違和感からくるストレスがピークに達して、「何か不都合が欲しい」とまで思うようになっていた。

そこでやったのが10日間の往復のチケットだけの無計画アメリカ旅行。

英語が話せない状態で、わからない事でも適当にYES・NOを言わない事を決めて旅立った。

 

当たり前のように現地で困った。

それはレンタカーを借りるにも2時間もかかってしまうほど。ホテルに泊まるにも1時間かかった。

何を話せばいいかわからなくて、他の客が話す会話を聞いて推理してなんとか宿泊。

マクドナルドで注文するのでさえ、「ネクスト」と言われて何度も並ばされ直され続け、注文まで30分かかった。

 

しかしそれが楽しかった。

ストレートにはうまくいかない経験が新鮮だった。

予測ができない事を観察して、なんとか解明してやっていく楽しさ。これが自分が求めていたものだと思えた。

 

カジノで一文無しにもなったけれど、その時も、親身になってくれた見た目はいかにも悪人そうな黒人に助けられてなんとか帰ってくる事ができた。

しかしコミュニケーションが取れなくて、涙が出るほど嬉しかったのに、連絡先さえ聞き取る事ができず、感謝の気持ちも「Thank you」とだけしか伝えられないのが悲しかった。

 

この時の経験が、もっと国際交流をしたいと思うようになった1つのキッカケ。

 

あの時マクドナルドで苦労しなければ、カジノでスらなければ、出会えなかったかけがえのない経験。

国際交流には当たり前の日常では訪れない刺激がある。それをみんなにも味わって欲しくて、全世界でコスプレサミットを行う事にこだわっているのかもしれない。

 

アメリカで受けた刺激・喜びとのギャップ。日本に戻って来て余計に感じるようになっていた。

32歳で部次長に昇進しても、それでもワクワクする仕事はできなかった。

もっと新しい事がしたい、刺激的なチャレンジがしたいと、電子マネーの事業を社内ベンチャーで立ち上げようとしたけれど、上司との折り合いが悪くてどうしても叶わなかった。

愛知万博で電子マネーをデビューさせるようなタイミングなのに、会社からGOが出ない事が悔しかった。

会社に対して感謝の気持ちはあったけれど、もう退屈な毎日を送りたくなかった。

そこで僕は会社を辞めて独立を決意。

 

社内ベンチャーを作る前提で、友人・まわりの人をたくさん巻き込んでいた事もあったので、2005年、責任を取る形で電子マネー「Edy」の普及事業を行うジャパンエリアコードTV株式会社を設立して代表に就任。

36歳、結婚したばかりだったけれど、妻は僕を応援してくれた。

 

 

4.電子マネー推進事業の成功と失敗。運命的な再開に思えた世界コスプレサミット。

 

事業は初年度から万博のおかげでうまくいった。

しかし、その後の会社経営は苦しかった。

元々やりたい事をやるために人を巻き込んだ事業責任を取る事が目的でなった代表。

チャレンジはしたかったけれど、起業家になりたかった訳ではなかった。

必ず電子マネー時代は来ると信じていたので迷いはなかったけれど、やりたくない経営仕事までしなければいけない代表取締役という立場は窮屈だった。

 

さらに、いろんなベンチャーキャピタルから出資したいと言われた事に気を良くして、よくわからないまま1億円を調達した事が失敗だった。

一度立てた計画に縛られ不自由になり、その後、数字・報告に追われた。

 

さらにそこにリーマンショック。

メインの収入源であった東京・名古屋・福岡で30万部刷っていた「Edy NAVI」というフリーペーパーの広告撤退が相次いだ。

年商4億以上あったものが、2億円を切るまでに激減。さらにその後の東日本大震災で、さらに経営は悪化。

借金も2億円まで膨らんで資金繰りに追われた。

 

やりたい事ができないばかりか後処理に追われて、何のための仕事かわからなくなっていた。

離婚・自己破産まで考えたけれど、お客様との約束を履行出来ない悔しさと、過去に会社を一度倒産させているにも関わらず再起し上場まで経験した素晴らしい先輩のアドバイスに助けられて、経営改善の目処、銀行に頭を下げて返済の延期の目処が付けられた。

 

ちょうどその時に出会ったのが、同じように経済的に破綻し、継続が危ぶまれていた世界コスプレサミット。

それは僕が15年前、テレビ愛知時代に立ち上げに関わっていたイベントだった。

規模拡大と共に赤字が膨らんで困って辞めようとされていたタイミング。

これは僕が立て直すしかないと不思議な縁を感じた。

 

クールジャパンで盛り上がっていた時代。

それを辞めてしまうなんてもったいないと思った。

 

事業もまだ軌道に乗っておらず、お金もないばかりか、2億円の借金を抱えたままではあったけれど、43歳、赤字のイベントをそのまま引き継ぐ形でコスプレ事業に参入。

それはいわば世界版コスプレの甲子園のようなイベント。

17の国・地域(当時)で何度も予選を勝ち抜いてきた猛者達が、こだわり抜いた衣装と2分半の演舞を披露するために聖地名古屋を目指す。

この熱量を受け止め、「若者たちに国際交流を後押しする新しいチャレンジをしたい!」という想いをみなぎらせてもらった。

そしてコスプレのような世界中の若者に愛されている文化は、ボランティアさんも能動的に集ってくれる。仲間が増える事でより想いは強くなっていった。

この出来事は本当に可能性に満ちた出会いだった。

 

コスプレをただのオタクイベントにはしたくない。

そのためには、世界に羽ばたこうとする企業の応援をもらわなければいけないと強く思い込み、大企業に何度も通い詰めて協賛してもらう営業に時間を費やした。

「日本のアニメ・マンガ・ゲームを通じて日本の事を好きになった若者達の熱量を絶やしてはいけない。」という想いを何度も伝えた事で、外務省・名古屋市という行政が主催メンバーに加わり、全日空さん、ブラザーさんなどの大企業を含む32社ものスポンサーが集まってくれた。

 

が、反面で大きな問題も生み出した。

それは、側から見れば「大企業にスポンサードしてもらっているため儲かっているイベント」と誤解されてしまったこと。

応援者を募る際の大きな妨げとなった。

 

さらにまだまだ悩みは続く。

今では35の国・地域から参加を募る大イベント。

わずか社員5名、ローコストでやっているにも関わらず、2億円近い運営資金の原資を賄いきれないでいる。

規模縮小させたら黒字化はできるけれど、情熱の火を萎ませるような気がして縮小はさせたくない。

参加したいと心待ちにしている国は他に30カ国以上あるのに、予算の問題で受け入れる事ができていない状態。理想と現実の狭間でのやりくりに苦しむ事も多い。

 

規模が大きくなればなるほど、会場費用・警備費用・滞在費などの運営費用が跳ね上がってしまう。

収入は、権利収入・スポンサー収入・放映権・物販・ブース収入などはあるけれど、それでも全然足りないまま。

それでも参加者がさらに増えて、もっと世界に認知されていけばいつか花が開くはず。

 

 

「何か不都合が欲しい」とまで願って行ったアメリカ旅行、そして起業に、世界コスプレサミット。

色々あったけれど、今、最高に充実した毎日を送れている。

借金もあるし事業も赤字。

それでも、アニメ・マンガを通じて日本を好きになってくれた世界中の若者と、コスプレという文化を通じて一緒に盛り上がっていけるイベントに関われる事がとても嬉しい。

 

日本の文化を愛する外国人に絶対悪い人はいない。

大げさかもしれないけど、コスプレ外交は世界平和に繋がっていく道だと勝手に思っている。

 

だから世界中の人と仲良くなれるこの喜びをもっと広げたい。

そのためにも、世界コスプレサミットを、オリンピックのように永続させられるようにしたい。

 

構造上赤字が続くこの苦難を乗り越えて、新しいモデルとして確立させたい。

一緒に夢を追いかけられる仲間と共に!