有限会社オータプランニング 代表取締役 太田 勉

 

1.おばさんからもらったカメラがキッカケで写真の道へ

鈴鹿生まれ鈴鹿育ち。3つ上の兄と両親との4人家族。銀行員と父と保育園の先生をしていた母。共働きで口数少ない家族。その中で僕が話すとみんなが明るくなるのが嬉しくて、小さな頃から元気だった。

 

小学校に入ると、友達がいるのが嬉しくて、クラスで人を笑わす事においてはナンバーワンと言われるくらい活発だった。鍵っ子だったけれど、いつも外で遊んでいた。

 

しかし中学校は、3つの小学校からいろんな人が集まった事もあって、もっと面白い子がたくさんいた。自分でも面白いという自負はあったけれど、彼らの前では僕の存在は大した事はなかった。

 

それからというもの、人前に出る事は減っていった。急におとなしくなった。卓球部に入って運動に打ち込みはしたけれど、クラスの中で自分の居場所がなくなったような気がして寂しかった。小学校の頃の明るい自分を取り戻したくて、自分の事を知らない人が多い、遠くの高校に通って高校デビューを目論んだ。

 

しかし、根っから明るい訳ではなかった僕は、結局クラスの中で目立つ存在にはなれなかった。まわりには将来の夢を語るクラスメイト。彼らがキラキラして見えて羨ましかった。

 

僕にはやりたい事なんてなかった。もどかしい想い。劣等感。

流されるように大学受験をするものの、力を出しきれないまま受験は全て不合格。

 

負けて悔しいと想いもなく、何がやりたいかも決まらないままの浪人生活。

 

高校のクラスメイトは、大学に行ったり、なりたい職業に向かって頑張ったりしている中、僕はなんだか取り残されたような気持ちになった。予備校で勉強の仕方を学び、成績は格段に伸びたものの、どこの大学、どこの学部に行きたいなんて想いはなかった。

 

勉強が好きではない事に気が付いた僕には、サラリーマンになってデスクワークをするような仕事には向いていないような気がした。普通に大学に行って、普通に就職をするような人生は嫌だと、浪人中にもかかわらず勉強に身が入らないまま。大学受験しても合格しない事は目に見えていた。

 

そんな時、知り合いのおばさんに「これあげるわ」とお年玉の代わりにもらったのがカメラ。衝撃が走った。芸術系が得意な訳ではなかったけれど、神様が写真を仕事にした方が良いよって言ってくれたような気がした。よくわからなかったけれど、運命の出会いのように思えた。

 

予想通り大学受験は失敗。しかし僕には写真の専門学校に行きたいと想いがあった。両親に言うと「お前のやりたいようにやったらいい」と僕を応援してくれた。

 

今の僕があるのも二度の受験に失敗し、それでもやりたい事を無条件に応援してくれた両親の存在は大きい。そのおかげもあって、名古屋の東京写真専門学校に入学。初めての写真の勉強。とても楽しかった。

 

さらにそこでもう1つ大きな出会いがあった。それは初めてできた写真屋の娘の彼女。3年間の付き合いではあったけれど、彼女と一緒にいられた事が僕を写真の道に導いてくれたように思える。

 

2年過程の専門学校で彼女は1年で辞めて実家に戻る事が決まっていた。男手が少なかった彼女の父が経営する写真館。彼女に釣られて、そして彼女の父にも誘ってもらえた事もあって、僕も専門学校を1年で辞めて同じ写真館に就職した。

 

2.彼女との別れ。独立・結婚して鈴鹿創寫舘をオープン

ちょうど昔カメラをくれたおばさんに、「あなたは将来、6店舗の店を持つ社長さんになる」と言われていたので、僕は彼女と結婚するものだと信じて疑わなかった。とはいえ彼女の父である社長からは「お前らは長く続かない」とは言われていた。それが悔しくて、それをバネに朝から晩までほとんど休みもなく仕事をした。

 

それでも僕と彼女の距離は離れていった。彼女はいつも社長と僕を比較していた。敏腕を振るい11店舗まで拡大させ東海エリアで一番の写真館にまで押し上げた社長に比べれば、僕はマイペースで頼りない存在。彼女にはいつも卑下された。男勝りの性格で積極的に動く彼女と僕では釣り合いが取れなかったのかもしれない。結局23歳の頃に破局。悲しかった。

 

とはいえ彼女の父にはそれなりに認められていた僕は、彼女とも友達のまま、29歳までその写真館で勤めさせてもらった。まわりから不思議がられたけど、それでも仕事は楽しかった。

 

なぜなら僕は、23歳からずっと学校アルバムの責任者として、高校生を担当していたから。修学旅行に付いて行ったり、文化祭や体育祭などの行事に行って写真を撮っていると、学生と仲良くなってアイドルみたいにモテた。付き合うのはご法度だったけれど、それでも小学校時代に味わった目立つ存在になれた事が嬉しかった。それが僕のやる気に繋がっていた。

 

しかし、年齢が上がると共に、学生にチヤホヤされる事が少なくなって、おじさん扱いされるようになってしまっていた。それと共に独立したい気持ちが強くなり、29歳で円満退社し独立。そして同じ店舗で一緒に仕事をしていた奥さんと結婚。元々、30歳までに自分の城が持ちたいと思っていたのでいいタイミングだった。

 

夫婦2人で協力し、地元、鈴鹿で鈴鹿創寫館という名前でフォトスタジオを作った。

 

当時は写真現像の仕事が繁盛していた。その中で僕の店は写真館と現像施設を組み合わせた当時の鈴鹿では画期的な店。繁盛した。しかし開業して5年して、0円プリントや集配業者が台頭し、さらにその後、デジカメが普及し始めた事で業績は次第に悪化。当時アナログからデジタルに切り替わるのには10年かかると言われていたのに、実際は3年程度で急激に切り替わってしまった事もあって大変だった。

 

どうにかしなければと、39歳、現像をするラボを閉鎖して、オリジナルのアルバムを作れるデジタルフォトスタジオにリニューアル。今の子供写真館のようなお店。当時の鈴鹿では2店目。衣装を増やし、人気ではあったものの、その3年後には近隣にも同じ業態のお店が増えて競争が激化。それでも固定のお客様が付いていてくれたのでなんとかやりくりする事ができていた。

 

他の店との違いは写真の質。もちろん技術もあったけれど、2人の子供を持つ親として写真を撮れた事も大きかった。親から見る可愛い子供の仕草や、親として欲しいと思える写真はどんなものかわかった。そのため、他の店で子供のいないアルバイトが撮る写真とは明らかに違っている自信はあった。他の店舗で撮ると写真の質の違いがわかるために、他に行っても戻ってきてくれる人も多かった。

 

しかしそれでも、鈴鹿に2店舗しかなかったデジタルフォトスタジオが5店舗にまで膨れ上がり、広告費もそれほど出せる訳でもなく新規の集客は限界だった。既存客も七五三の後は、20歳の成人式まで写真を撮る機会が無くなる事もあって、業績は下がっていった。

 

店を作って以来、ついに写真では食ってはいけない状況に追い込まれた。会社の借金と2人の子供を抱え、経営の勉強に走り回った。大阪にセミナーを受けにも行った。そこで教えてもらった事は、写真で食っていくには他者が真似できないくらいの大型フォトスタジオを作るか、ローコスト経営にして貴金属買取などで異業種を加えて付加価値を付けるかのどちらかという事。

 

大型フォトスタジオを作るお金なんてあるはずもなかった。貴金属買取が好きな訳でもなかったけれど、42歳、藁にもすがる想いで貴金属買取事業をスタート。これがものすごくうまくいった。

 

当時サブプライムローン問題でお金がなくなった人も多く、「貴金属お譲りください」とチラシを出すだけで、何十人のお客様がお店に来てくれた。

 

結果1ヶ月150万円の利益。たった2ヶ月で初期投資を回収し、半年で1600万円の利益。

 

今まで1人のお客様の写真を取って、編集をして数万円のお金をもらう仕事をしていたものが、数分で何十万円ものお金を手に入る仕事をした事によって僕の金銭感覚は狂った。

 

元々は写真館の経営を続けるために仕方なく始めた貴金属買取事業。そこで初めて知った儲ける喜び。それに囚われて、いつのまにかお金のために仕事するようになっていった。

 

元々、貴金属買取の仕事は長くは続かないと言われていたけれど、それが思った以上に早く来てしまった。キッカケはリーマンショック。金の買取価格が3分の1まで下落し事業は停滞。もちろん写真館の方は片手間なので数字は落ち込んだまま。

 

その後もお金を稼ぐために、ブランド品買取にチャレンジしたり、着物や切手など他の買取商品を増やしたもののうまくいかなかった。

 

結局、貴金属買取事業をやめて写真スタジオ一本で行く事を決めたものの、膨れ上がった借金は残ったまま。ちょうど長女が大学に入る時期になると、これ以上は持たないとついに、49歳でスタジオも閉鎖。夫婦2人だけでお金をかけずに、他の写真館ではやっていなかったロケーション撮影に活路を見出す「出張撮影専門店」として再出発する事になった。

 

3.数字に追われる中で出会った倫理法人会から学んだ大切な事

 

借金は減らず、新規融資も受け入れられず、資金繰りに苦しんだままの再出発。写真撮って喜んでもらってお金をもらうはずが、今月これだけの売上がなければいけないと毎月数字に追われ、お金が欲しくて写真なんてどうでもいいくらいの心情。仕事が楽しい訳もなかった。

 

しかも店舗がない写真館。面白いと思ってくれる人なんてほとんどいなかった。とにかく信用がなかった。ブログやチラシで集客ができるかと思いきや、ほとんど反響はなし。それでも何かするしかなかった。写真教室・スマホ教室。外に出て僕の事を知ってもらう活動に力を入れた。

 

それもうまくいかなくて結局尻すぼみ。借金返済に終われ、苦しんで、その時に出会ったのが倫理法人会。チラシもSNSもホームページもうまくいかなくて、すがるところはそこしかなかった。言われた事はすべてやってやろうと思った。

 

言われるがまま朝4時に起きて神社の掃除をし始めた。倫理法人会を1日も休まずに通い続けた。故、林輝一さんに「売上を上げるには両親のルーツを探れ!」と言われて、父にインタビューして写真と文章でまとめた冊子も作った。

 

倫理を学んで2年間。教えられた事は、自分の我を取る事が大切だという事。

 

神社を綺麗にしたり、両親のルーツを探ったり、その過程で、大勢の中にいるちっぽけな自分、生かされている自分に気が付かされる。自分さえよければいいという考えでは、ツキは逃げていく。すべてのものに感謝の気持ちを持って、相手目線で動けば縁は広がっていく。

 

家庭倫理の会の人に「お金は必要な分だけ入ってくる。人を助ける喜びを知りなさい。」と言われた意味がわかるようになってきたのも最近の事。売上を倍にするには、「あなたがいてよかった」と言われる量を倍にするだけという考え方がスッと入るようになった。

 

結局色々やって気付いた事は、写真はお客様に喜んでもらう手段である事。その人の魅力を伝える手段。そして何より、写真を通じて自分の事を好きになってもらい、人生を変えるお手伝いができる事がこの仕事の魅力。

 

名刺の写真を1枚撮るにしても、自分の事が嫌いな人はすべての写真を嫌がる。ずっと付き合ってきた名前を嫌いという人もいる。僕の仕事はそれを好きにしていく事。写真を通じて自分を好きになり、人を大事にして育つ事の大切さを伝える事ができる。

 

思えば僕もずっと自分の事が嫌いだった。小学校時代、目立ってチヤホヤされていた自分を取り戻す事に縛られていた。写真で飯が食えずに惨めな自分が大嫌いだった。僕も自分嫌いを経験しているからわかる。自分の事が嫌いな人は、自分の事を認められないから幸せになれない。すべてを受け入れて自分を好きになる事が人生を楽しむためのスタートライン。

 

毎朝名前を10回書いたり、先祖からの自分のルーツ・氏名のルーツを探ったり。自分の経験を伝える事で、自分の事を好きになってくれる人が1人でも増えたら嬉しくて、積極的に写真以外の話もするようになって喜ばれる事が増えた。

 

そして自然な流れで数字が伸びて、数字に追われる事は減っていった。

 

4.現在の活動と夢

今では写真にこだわらず、 個人向けにも法人向けにも仕事をするようになった。名刺を作るようになったり、社長のプロフィール写真を撮ったり、チラシ作成・ホームページ・動画編集をするようになったのも倫理と出会った頃から。

 

写真というものに囚われていただけで、自分の事を好きになるお手伝いをする事、そしてその人本来の魅力を伝えるという想いは変わらない。

 

写真でなくても、目の前のお客様に、太田さん出会ってよかったと言ってもらえれば何をしても嬉しい。できる事はやってあげて、できない事を頼めばいい。自分を尊重して認めてあげる。受け取ればいい。そして目の前の人、身近な人に喜んでもらう行動をし続けて入れば、お金は自然に入ってくる。

 

数字をあげるという事は、困っている人を助け、仲間を増やして行くだけ。増やさなければいけないと思うから苦しくなる。うまくやれば自然に増える。

 

昔は資金繰りに追われて真っ暗だったはずの毎日が、今とても楽しくて明るいものに思えるようになったのは、自分の事を好きになれた事がキッカケ。

 

より自分の商品・サービスが好きになり、伝えられるようになった。自然な流れの中で、苦しまず楽しく数字を伸ばしていけるようになってきた。

 

この経験をもっといろんな人に伝えたい。

 

やりたい事は自分の事・自分が取り扱う商品・サービスを好きになってもらうお手伝い。文章でまとめたり、写真を撮ったり、動画を作ったりするのはそれを伝える手段。

 

まずは、その人自身に自分の魅力・自社の魅力・商品サービスの魅力に気が付いてもらうところから。自分の事・自社の商品・サービスに自信が持てない人はぜひ、一緒にお茶をしながら魅力探しをさせて欲しい。

 

きっと何かの力になれるはず!