有限会社タケウチ 代表取締役 竹内大介

竹内さん

 

野球漬けの学生時代

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名古屋生まれ。父と母、姉と弟の5人家族。両親は2人で学研の代理店として自営業をしていた。父は昭和22年生まれで、昔ながらの自由奔放な人だった。「男たるものこうしなければならない!」という思いが強く、私にとって煙たい存在だった。笑った顔を見た事がないくらい厳しかった父と、家庭の事を任され優しかった母。まさに飴とムチ。父に怯えながら、父の顔色を見ながら育ってきた。

 

そんな私の学生時代のすべては野球だった。野球好きの父の影響もあって、小学校の頃から野球を始めた。スパルタな父と野球漬けの毎日。言われた事をやるのが当たり前で、途中で辞めるなんていう選択肢はなかった。

厳しい中でもそれなりの結果を出して野球を楽しむ事ができたのも中学校まで。高校に入ってからは、監督とコーチからの厳しい指導に加え、家に帰ってから父からのダメ出しの日々で、「野球なんてもう辞めたい」と思うようになっていた。

 

高2の秋、父に野球を続けていくのが辛いと相談すると、「おまえなんて好きな野球やっているんだろ?仕事はもっとつらいんだ。」と言われた。「野球から逃げてしまったら、まともな社会人になれない」という脅迫観念に駆られながら、なんとか続けてきた野球。高校3年生で引退が決まった時には、「やっとこれで野球から逃げられる」と思ったほどだった。
父・監督・コーチに絶対服従で、言われた事をただ逃げずにやってきただけ学生時代。そんな私に、自分の意思で動くキッカケを与えてくれたのが、監督の紹介で見学に行った社会人野球チームだった。

 

そこで目にしたのは、ガッチリとした社会人野球選手達が目を輝かせながら、大声を張り上げて、自発的に“楽しんで”野球に取り組む姿だった。最初に野球を始めた頃にあったはずの「野球を楽しむ喜び」がそこにはあった。
寮生活で仕事をしながら朝から晩まで練習して、身の回りの事も自分で行う社会人野球は、高校の時よりもはるかに大変だったはずだった。それでも、自分の意思で、自分で考えて、楽しく野球をやる事ができ、今思い返しても楽しい思い出しか思い浮かばない。

 

しかし、その楽しい社会人野球も、ヘルニアで野球ができない体になった事で、26歳で終わりを迎えてしまう。ドラフト指名される年齢も過ぎ、いつまでも野球は続けられないとわかっていたので、ケガはいいキッカケだったのかもしれない。野球を辞める事に対してはすんなり受け入れることができたものの、代わりに襲ってきたのは将来に対する大きな不安だった。

 

社会人野球を引退そして実家へ

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野球以外何もやってこなかった私。そして野球でプロになれなかった私。親に薦められて入った高校から、監督の紹介で社会人野球に入って、敷かれたレールの上を生きてきたような私が、はじめて考える事になった今後の人生。
大海に一人放り出されたような気持ちになった。同級生を見ると、彼らは普通に良い企業に就職して、普通に会社で活躍しているにもかかわらず、私は26歳でゼロからスタートすると思うと不安で不安で仕方がなかった。

 

そんな私に唯一残された道は実家だった。実家に戻れば自由奔放な父の代わりに、何かできる仕事があるはず。そして、今まで好き勝手やってきた私を支えてくれた母を、いつも怒っている父から守りたいと思った。ちょうど姉は結婚して実家を出ていた上に、八つ下の弟が大学一人暮らしを決めたタイミング。広い実家に父と母の2人だけを残してしまうのも気がかりだった。
私が「家に戻って仕事を手伝うよ」と言うと、父も母も喜んでくれた。それがキッカケでお世話になった会社を、ほどなくして退職。実家の学研のルートセールスの仕事を手伝う事になった。そして実家に戻った半年後、以前から付き合っていた彼女と結婚。第二の人生がスタートした。

 

実家に戻れば何か私にできる仕事があると思っていたものの、現実はまったく違っていた。家では自由奔放で尊敬できなかった父も、仕事では本当にしっかりやっていた。お客様をまわっていても、父が強い関係を作ってくれていた事もあって、当たり前のように商品を買ってくれた。そして行く先々で私は父と比較され、「お父さんはすごいよね。」と劣等感を感じさせられるだけで何もできなかった。
そしてそんな父の事を、母はよくわかっていた。私は父から母を守るつもりでいたものの、それは私のとんだ勘違いだった。まさに肩透かしを食らった状態であった。

 

そうして実家に戻って1年経った頃、父は急に「俺は身を引く」と52歳で引退表明。意味がわからなかった。本当は父に認めてもらいたくて、それでもそんな事は言えなくて何かと父にイライラしていた私。「引退ってラクをしたいだけじゃないの?」と父に噛み付いていた。とはいえ一度言い出したら聞かない父。そこからはもう話にならなかった。
売り言葉に買い言葉で「やってやる!」と28歳、父よりもすごい事を証明したくて、会社を組織として成長させたいと有限会社タケウチを設立。しかし頑張っても頑張っても、行く先々でいつも「お父さんは元気にしてるの?」言われ、父と比べられて、ずっと認められない私。
結局、ほとんど成果も出せず、父を見返すような事もできないまま、ずっと父と口をきかず、それでも頑張り続けるような苦しい毎日だった。

 

心理学との出会い・父との和解

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そんな父との関係が大きく変わり始めたのは38歳の頃だった。母が「大介には絶対言うな!」と内緒にされていた父の病気を教えてくれた。それは、うつ病から来る不眠症。もう隠す事ができないほどヒドい状態になっていた。父がずっと心療内科に通っていた事、そして薬を飲んでも眠れなくて苦しんでいた事を知った。

 

そして同時期、母が病気で仕事ができなくなった事がキッカケで、私も目が回るくらい忙しくなった。
頭が痛くて息が苦しくて、立って仕事するのが精一杯な状態になった。奥さんから「お願いだから病院行って!」と言われて行ったのは心療内科。病名は「自律神経失調症」。もらった薬はなんと、父とまったく一緒のものだった。
そして薬を飲んでもどうにもならない心の苦しみを解消したいと、仕事の傍ら、なんとか時間を作って、心理学やうつ病関係の本を読み、様々なセミナーに参加するようになった。

 

それまでは「苦しいのは父が仕事を手伝ってくれないからだ!」とイライラしていた私も、勉強をするようになって大きく変わる事になった。私のイライラは父のせいではなく、私自身の問題だと、日本メンタルヘルス協会の衛藤先生は教えてくれた。
結局、父を嫌いになるのも、父を好きになるのも、すべて私のとらえ方次第。不眠症に悩み、子供にカッコ悪い姿を見せたくなくて強がっていた父の本当の姿を思った時、父に対するわだかまりがズボッと抜けたような気がした。

 

それからというものの、私は人間関係にほとんど悩まなくなり、すべてがうまく回り出した。私が変わる事で、まわりの行動が変わっていった。今まで父に対してあった先入観と固定観念が嘘のように晴れて、父と笑顔で話せるようになった。父を憎んで生きてきた、今までの時間がもったいないと思えるくらいだった。

 

子供は親の影響によって、自分のやりたい事、見える世界が変わる。親は子供のためを思って色々と口を出しすぎてしまうがために、子供は自分の本当にやりたい事がわからなくなる。子供は、自分のためではなく、親の顔色を見て、親に怒られないため・親に褒められるために自分のやりたい事を主張しなくなる。

 

まさに私はそれで苦しんだ。思えば私は親のために野球をやっていた。親のために実家で仕事をしていた。だからこそ、うまくいかない事を父に当たってしまっていた。そして、父は私のために尽くしてくれていた。父は私に野球で活躍できるようによかれと思って「野球以外やるな!」「逃げるな!」とスパルタ教育をしてくれた。お互いがお互いを思うがあまりに衝突してしまった今までの事が、心理学を勉強する事でスッと晴れていった。

 

親の学びの場を作りたい!ファミリービジョン協会へ

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そして、こんな問題は大小あるものの、私だけではなく、ほとんどすべての家庭で同じように悩まれている問題だと知った。学研のルートセールスで、幼稚園や小学校をまわっていても、みんな子供に対してどうしてあげたらいいかわからなくて悩んでいる。しかし、私がたまたま38歳で初めて勉強しようと思うまで気が付かなかったように、親の「学び」の場は思っている以上に少ない。さらに親は時間的余裕も金銭的な余裕もない事が多く、なかなかセミナーに参加できないという事情がある。

 

 

そんな親にも気軽に学べるように、それぞれの地域で親の「学び」の場を作りたいという想いで学研の仕事の合間にはじめたのが、パートナーの成瀬さんと一緒にやっているファミリービジョン協会の親育事業。

 

いまだに私も、子供のためを思って、干渉しすぎてしまう事があるように、親になると子供がかわいすぎて盲目になってしまう。そして子供のためと思ってやっている事が、いつの間にか、自分の安心のために子供に何かを押し付けてしまう。こうすればうまくいくなんていう明確な答えはないけれど、定期的に親子の心理的な問題を共有・改善していけるような場所を、1学区に1つずつ作っていきたい。

 

現在、私は、学研の仕事とうまく絡めながら、時間的余裕も金銭的な余裕もない親向けに、ママSUNカフェという1000円で子育てについて話し合う勉強会を定期的に開催している。講師として教えるというスタイルではなく、ナビゲーターとして一緒に学ぶという新しいスタイルで満足度は高い。もっと開催してほしいと言われるものの、ビジネスモデルが成り立っていないため、ほぼボランティアのような形で月1回程度しか開催できていない。

 

料金が安くても参加人数を増やす事で事業化していくのか、それとも、ボランティアのような形で動いてくれるメンバーを募って広げていくのか、今後どうやっていけばこの親育が全国に広げていけるのかまだ見えていない。それでもなんとか試行錯誤しながら、この親育をビジネスモデルが成り立たせ、全国に広げていきたいと思う。