株式会社 アティカ 代表取締役 瀧田 誉

 

1.大好きだった父親との別れとカナダ留学

宝石卸会社を経営する父と、専業主婦の母、2つ上の兄の4人家族。小さな頃から僕は優しい父が大好きだった。重度のファザコンと言われても仕方のないくらい、僕は父に甘えていた。自宅兼事務所。ダイニングテーブルで仕事している父を邪魔するかのように、僕はいつも父の膝の上に乗っていた。それでも父はいつも笑顔で、僕の頭を撫でてくれた。時間ができると父は一緒に遊んでくれた。近くの公園でよくキャッチボールをした。

 

大阪、静岡、名古屋、東京と、父は出張が多くて半分は家にいなかった。毎回、父が家に帰って来るのが待ち遠しくて、帰ってくると僕は父の足にしがみついて離れないくらいだった。

 

高校2年生まで自分の部屋もなく、2個上の兄と二段ベッドで寝るような毎日。家はエレベーターもないような賃貸のマンション。決して裕福ではなかったけれど、それはそれで幸せだった。

 

将来は宝石の仕事をすると決めていた。父が大好きで、父と一緒に仕事ができる事を夢見て生きてきた。そんな僕が選んだ進学先は、アメリカの大学の日本校。英語が話せるようになれば父の役に立てるとわかって選んだ学校。ワクワクしていた。

 

しかし、それも突然の訃報に終わりを迎える事になった。18歳、大学に入学してしばらく経った時、父が病気で急死。父は49歳。元気のはずだった。信じられなかった。すぐに日本に戻った事は覚えているけれど、その亡くなった後の2日間はあまりのショックに記憶がない。

 

何をやったらいいのかわからなくなって、しばらくポカーンとしていたような気がする。その後、結局アメリカに戻ってやった事は学校中退、そしてカナダ留学。授業中は日本語禁止のはずなのにみんな普通に日本語で会話をしていて普通の学校と一緒。このままでは英語力が身につかないと思っての決断だった。

 

それももしかすると、辛くて仕方がなくて、父の事で悩んでいたくなくて、何かに必死に打ち込みたい気持ちがあったのかもしれない。

 

そんな僕の気持ちをわかってくれたのか、母は学校を中退してカナダへ留学する事を許してくれた。まわりに日本人のいない環境で、退路を断ってとにかく必死に勉強した。1年でどれだけ勉強したって高卒扱い。ここで英語をしっかり学ばなければ、僕は何もないただの高卒になってしまうと自分を追い込んだ。何を言っているのかわからない授業と、コミュニケーションがまともに取れない苦しさ。そのおかげで、人生初めて本気になれたような気がする。1年必死に頑張った事は僕にとって大きな自信となった。

 

2.宝石会社での下積みと役者への挑戦!

 

1年経って日本に帰って来て何をしようかと思った時、僕はやっぱり父がやっていた宝石の仕事がしたいと思った。それ以外頭に思い浮かばなかったという方が近いかもしれない。そんな僕が20歳で勤めた会社は宝石加工メーカー。ワンマンで社員をこきつかうような社長。毎日朝8時半から夜11時までの仕事で本当に忙しかった。

 

それでもそれが良かった。僕の最終学歴は高卒。大卒の人間には負けないためにも、自分を鍛えなければと思っていたので、人より頑張って働いて人より早く成長できるのは嬉しかった。そして何より、父の大好きだった宝石に関わっているだけで幸せだった。

 

毎日必死に勉強した。宝石の事が大好きで、お客様に宝石のデザインまで提案する営業が功を奏して自分の業績もグングン上がった。歩合給でかなりの給与をもらえるようになった。高卒でも結果が出せる事が実感できて嬉しかった。

 

しかし、その時、なぜか心に何か引っかかる満たされない気持ちがあった。キッカケは周りの人たちがよく話をしている「若い頃にもっと、これをしておけばよかった」という後悔の話。

 

宝石の仕事はいつでもできる。結果もそれなりに出せる。若い今だからこそ今やるべき事はなんだろうと思った時、カナダ留学中にやっていた演劇サークルの事が思い浮かんだ。楽しかった演劇の記憶。若い今しかできない事は演劇だと、思い立ったように、22歳で退職を決めた。

 

演劇もせっかくやるなら東京でやろうと、東京の劇団に入団。180人受けて16人しか合格できないような劇団だったけれど、そこでも必死に頑張って、年2、3本の舞台でよく主役に抜擢されるほどのめり込んだ。

 

役者・ナレーション・モデルの3役をこなして演劇を続けたけれど先は見えなかった。テレビドラマに出たくても声はかからないまま、お金も稼げず、準備も大変な毎日。4年間頑張り続けたことで、やりたい事はやり切った思いと、いつまでも続けてもダメだと思いで、演劇に見切りを付ける事ができるようになった。

 

そして26歳、そのまま東京の宝石卸会社に入社。

 

4年のブランクはあったものの、そこでも頑張って、それなりの成果を出す事ができた。宝石屋さん向けの営業をしていた4年前とは違い、そこはブティックのお客様に声をかけて、宝石の提案をして、売れたらコミッションをもらう営業。宝石を見せた時のお客様の反応が見えて、さらには、お客様に直接ありがとうと言ってもらえる仕事が楽しかった。

 

しかし、1つ大きな不満があった。それは売りたくない商品まで売らなければいけない事。色々勉強させていただく中で、3年経つ頃には自分でもできると思えるようになっていた。

 

3.父の会社を継承

 

満を辞して、2000年、29歳になって父の瀧田宝飾を引き継いだ。とはいえ、事業は決して楽ではなかった。母と兄から引き継いだばかりで社員は僕1人。資金は現金300万円と、借金100万円の400万円のみ。仕入れたい宝石はたくさんあるのに、お金がなくて買えなかった。だからこそ、宝石の仕入れは選びに選んだ。

 

毎週、100個の中から1個を選ぶような仕事。社員が誰もいない中、誰にも相談できなかった事も大きかった。仕入れに対するこだわりはこの頃の経験が大きいかもしれない。いい宝石を見るだけでホッとした。オーラが出ている宝石がわかるようになった。たまに見つける特に綺麗な宝石を見て仕入れられると、それが可愛くて仕方がなかった。

 

上司がいない。部下もいない。全て自分の責任。自分で売ったら売っただけの収入。誰にも守ってもらえない環境。不安もあったけれど、それがなぜか楽しかった。毎日がドキドキワクワクしていた。

 

そして何より、宝石の仕事をしていると父を感じられた。疲れる事もなく、宝石の仕事をするのが当たり前のように働き続けた。すると素晴らしい縁が広がっていった。

 

2011年、39歳、違う店舗業態をしようとしていたところ、いい場所が見つかって小売をスタート。店の名前は以前なんば高島屋でデビューさせたジュエリーブランド「アティカ」から名付けた。このアティカは、アルファベットで”TAKITA”を逆から読んで”atikat”(アティカ)。目指したのは、宝石を安心して買える店。

 

宝石販売に携わっていて昔から嫌だったのが「宝石が値段があってないようなものだ」と言われる事。その言葉は、子供の頃から大好きだった父の仕事を貶されているように感じられてしまう。

 

確かにまともな定価もないような商品。適正価格で売られていないと思って欲しくないからこそ、僕が素晴らしいと思う宝石だけを仕入れて、卸価格で提供するお店にした。

 

こだわっている売らない営業。買う人は宝石のいいところを見て買ってくれる。逆に宝石が好きすぎて、別に売りたくもないと思う。売らないと困るのに、売りたくない宝石が出てきてしまい、家にはドンドン宝石が増えていった。

 

4.ずっと変わらない夢。宝石の仕事のイメージを良くしたい!

 

そして現在7年目。僕たちのスタンスが好きな人がリピーターになってくれて今がある。宝石の価値をわかってくれる人に支えられて、順調に仕事を続けさせていただけている。

 

そんな僕が成し遂げたいのは、父が大好きだったこの宝石の仕事のイメージをもっと良くする事。フランスでは選ばれた人間しかできない高貴な仕事にも関わらず、日本ではそんなイメージはない。それは同じ1カラットでも数値化されていない業界の基準がない事も問題になっている。

 

そんな中でも、僕の店は薄利で頑張っている。うるさい接客をしないのは、お客様に宝石をゆっくり見てもらって、もっと宝石の事を身近にわかってもらえるようにしたいから。

 

父が大好きで、僕も虜になった宝石の魅力。業界イメージに惑わされず多くの人に知って欲しい。僕たちの店が業界の中で、1つのモデルになって広めていければ嬉しく思う。