丸重製紙企業組合 理事長 辻 晃一

自分の価値観を探し続けた学生時代

 

美濃市生まれ。和紙メーカーを営む祖父と祖母、父と母、弟2人と妹1人の9人家族。放任主義の両親の元、綺麗な川に囲まれて、毎日遊んで暮らしていた。ただ、事業を やっている家の長男として生まれた僕は、「跡取り息子」「御曹司」「将来は楽でいい」などと言われる事が嫌で、いつしか「家業は継がない!」と思うようになっていった。

 

中学3年生の時、熱烈に応援していた読売ジャイアンツが日本一になる姿を見て、「ジャイアンツに入団したい!」と、遊びでしかやった事のない野球をやろうと決意し、高校から野球部に入部。しかし入部3日で、あまりにできない自分と厳しい練習に早くも挫折。それでも自分で決めた事を途中で投げ出すのはカッコ悪いと、初心者でも必死に野球に取り組んだ。

 

最後まで補欠だったけれど、そのおかげで諦めない気持ちを学んだり、チームの中で人の在り方を学べたりした。レギュラーとか補欠とかではなく、ひりの人間としてどうあるべきかを考えさせられた3年間だった。

野球部を引退した後は、何となく東京の大学に行こうと思い勉強を始めたけれど、今まで勉強して来なかったツケもあって、うまくいかず大学受験に失敗。そこで進路指導の先生に相談すると、勉強に関してネガティブな事ばかり言われた事が悔しくて、売り言葉に買い言葉で、偏差値表の一番上に載っていた早稲田大学への挑戦を決意。当時の偏差値は30台。当然先生からは「お前には無理だ」と言われたが、「ジャイアンツに入団するよりは簡単だ!」と思えて仕方なかった。とはいえ、予備校の費用は寮費も含め100万円。何も言わずに費用を払ってくれる両親に感謝の気持ちと同時に、何としてでも合格しなければと思った。僕が早稲田大学に合格できたら両親も喜んでくれるに違いないと思った。

 

1年間の浪人生活。ほとんど休まず毎日、朝から晩まで必死で勉強した。その結果、なんとか早稲田大学教育学部英文学科に合格。驚く進路指導の先生の顔や、同級生、そして喜ぶ両親の事は今でも覚えている。やればできる事をこの時実感として持てた事は、大きな財産になった。また、感謝や誰かを喜ばせたいと思う気持ちが大きなモチベーションになる事をこの時学ぶ事が出来た。

 

早稲田大学に入ると、勉強漬けの毎日の反動もあって東京生活を満喫した。クラスメイトの仲も良く、毎日学校へ行くのは楽しかった。講義の後は居酒屋アルバイトで、講義がない日は、日雇いの引っ越しや建築現場など色々なアルバイトを経験した。

 

また、硬式野球サークルに入って、様々な先輩たちの変わった価値観に触れられたのもよかった。そこでは就職活動をしている人が極めて少なくて、バイト先に就職したり、卒業してもフリーターだったり。好きな事をして自分らしさを模索する先輩達。それが僕の価値観に影響を与えた。

 

元々、「合格出来ればどんな学部でもいい」と思って選んだ学部。将来やりたいことがあった訳ではなかった。大学3年生、就職活動の時期になっても、就職したいという想いは湧かなかった。それでも、一斉に就職活動を始めるクラスメイト達。話を聞くとみんな、やりたい事がないけれど、仕方なく就職活動をしていると言った。

 

若気の至りもあったかもしれない。当時の僕には、クラスメイトと同じように、やりたい事もないのになんとなく就職したくなかった。硬式野球サークルの先輩達の方がイキイキしているように見えた。

 

就職活動もせずに卒業して自然とフリーターになった。薬の臨床治験や山小屋での住み込みなど、短期間でまとまった収入の得られる仕事をしながら、旅行したり、山に登ったり。卒業後も、とにかく“今しか出来ない事”や“やってみたかった事”をやった。

しかし、しばらく経つとそれにも飽きてきて、ようやく少し仕事に興味を持てるようになってきた。

 

「自分は何がやりたいのか?」考える中で、なんとなくなりたいと思った職業が経営コンサルタント。理由はカッコ良くて稼げそうだったから。色々調べると経営コンサルタントには「中小企業診断士」の資格があるといい事が分かった。そこで、一度住んでみたかった名古屋に引っ越して中小企業診断士の資格を勉強し始めた。しかし、働いていない身には理解が難しかった。それならば資格を勉強するより働きながら生のビジネスを学んだ方が早いと思って、1年数ヶ月ものフリーター生活を経てようやく就職活動をスタート。

 

しかし、現実は甘くなかった。フリーターは分類上「大卒」にも「第二新卒」にも該当しなかった。そのため、面接で担当者からいい評価をもらっても、会社の規定で内定を出される事はなかった。これまで経験してきたアルバイトでも重宝され、それなりに根性もあって、それなりにコミュニケーション力もあると思っていた為、社会でもそれなりに活躍できると思っていた。それでも能力ではなくシステムを優先する組織の実態を見せつけられて、幻滅させられた。

 

この時、痛いほど味わった会社組織の不合理に対する反発心が、今の会社経営に対する考え方の土台になっているのかもしれない。

 

ベンチャーでビジネスの楽しさを知る

 

経営コンサルタント会社に就職する事はおろか、業種を選ばず就職活動しても失敗続き。お金がなくなる現実にも直面し、経営コンサルタントなんて言っていられない状況になった。なんでもいいから働かないといけない状況になった。

そんな中で、立場など関係なく就職させてくれたのが、名古屋のアパートの近くにあった、緊急トラブル駆け付けサービスのベンチャー企業。1年半フリーターだった僕に対して、面接担当者は「ウチはそういうの気にしないから」と言ってくれた。これが当時の僕にとっては涙が出るほど嬉しかった。一般常識テストもなく面接のみでトントン拍子に内定をいただき、お金がなくて生活が苦しい中、4月入社を前倒しで9月から働かせてもらえる事ができた。

 

社員30人の会社。エネルギッシュな社長や先輩達。僕を雇って良かったと思ってもらいたくて、必死に先輩から学びながら、一生懸命働いた。

 

会社は翌年マザーズ上場を控えるほどの伸び盛り。朝から深夜まで働き、休日もほとんどなかったけれど、社長との距離も近く、雰囲気が良くて楽しい会社だった。厳しいノルマがある訳ではなかったのも僕にあっていたのかもしれない。企画営業として、新しい商品・企画を先輩にアドバイスをもらいながら考えて、資料を作り、プレゼンをする仕事。とても忙しかったけれど、新しい事を考えて、自分で作り上げていく喜びがあった。

 

仕事が終わるのがいつも午前0時を過ぎだったけれど、会社の仲間と話すのも楽しくて、仕事後、飲みに行く事もしょっちゅうだった。深夜3~4時に帰って朝9時に起きて9時30分始業ギリギリに出社。今からでは考えられない働き方だったけど、それも嫌ではなかった。毎日が充実していた。

 

野球部で培った気合いと根性で必死に仕事に取り組んだ事や、居酒屋バイトで鍛えたコミュニケーション能力や、仕事の中で培った提案力が評価され、途中からは社長案件係として、社長直轄のなんでも屋として働いた。

 

明確なビジョンを持ちながら色々な事業・案件にチャレンジしていく社長の元、企画書を作って、調整・プレゼンの繰り返し。既成概念を捨てて、猛烈なスピード感で進めなければいけなくて、他の人が嫌がるような仕事だったけれど、“僕にしかできない仕事“という喜びもあった。ある意味やりたかった経営コンサルタントの仕事に近かったのかもしれない。

 

絶妙な提案の仕方、驚くような企業コラボ、奇想天外な宣伝方法など、社長の背中を見て教わった。社長の考え方や行動は、人から見ると適当に色々やっているように見えても、経営理念の元、全部繋がっていた。長期的視点を持って、飛び石のように手を打って、事業をより良い方向に導こうとしていた。ただ、忙殺されていた当時の僕には社長のビジョンを理解する余裕がなかった。

 

そうこうしているうちに、会社は急成長。入社当初は30人しかなかった社員が、4年経つ頃には社員数は2倍以上、東証一部にも上場し、組織化が図られるようになった。

しかし、事業計画も明確になっていく分、社長案件係として行う新規事業案件は、計画にない事がほとんどで、かつ短期的成果も出にくくビジョンもわかりにくく、社内では腫れ物に触るような対応をされるようになった。直属の上司には重宝されるものの、結果の出せない僕への風当たりが強くなっていった。社長も「やりたい事ができなくなった」とこぼすほど、仕事が楽しくなくなっていくように見えた。元々、定年まで働くつもりではなかった仕事だったため、必然的に次のステップを意識し始めた。

 

考えざるを得なくなった次のステップ。当初は、キャピタルゲインで数十億円も手にした社長を間近にみて、いつかはお金が儲かるベンチャー起業と思っていた。しかし、“何がやりたいのか”を考えていくうちに、お金儲けにそこまでモチベーションが湧かない自分にも気が付いてしまった。

 

自分で自分がわからなくなってモヤモヤした。自分には能力がないのかもしれないと、自分を否定してしまいさらに悩んだ。そんな中、父から「戻ってこい」と実家の和紙メーカーの会社を継ぐ選択肢を与えられた。それでも、“何がやりたいのか”ばかりを考えていた為、どうするかなかなか判断ができなかった。

そんな中、あるセミナーがきっかけで「他人と比較しない」「自分の価値観を大切にする」事を学び、“何がやりたいか”よりも“何の為にやりたいか”が大切である事に気づいた。

ベンチャー企業での経験のある自分だからこそ、地元で家業を継ぎ、和紙の事業を再生したり業態変化させたりする事で、新しい風を地域に起こす事ができるのではないかと考えた。生まれ故郷の美濃市を元氣にする為に働く事を考えるだけでワクワクした。

また、ゼロから会社を立ち上げなくても、既存の会社を変化させるのもベンチャーだと考えたらスッキリした。モヤモヤする中で自分の“働く目的”を見つける事ができた。そこからの動きは早かった。

 

家業での試行錯誤の末に辿り着いた企業経営スタイル

2009年2月、29歳。会社を退社して、家業の丸重製紙企業組合に入社。父の営業に同行し、配達を手伝い、その合間で現場に出てゼロから和紙の事を勉強する事になった。

 

僕より1年半ほど前から戻っていた弟が製造責任者として、僕は営業責任者として、ベテラン社員に混じって必死に働いた。というのも、入社した当時は過去最低売上で過去最大赤字の年だった。

でも、これが逆にベンチャー魂に火をつけた。なんとかしなければという想いがあった。朝から晩まで働いて、やらなければならない事ややりたい事がどんどん出てきた。「この会社を変えてやる!」とテンションが高かった。

 

しかし、それが空回りした。

 

現場のほとんどは60歳を越えたベテラン社員ばかり。当時から丸重製紙は、定時きっかりにタイムカードを押して帰る社風。元々、ベンチャー企業で朝から晩まで猛烈に働いていた僕にとっては、定時で帰る事や土日祝日をしっかり休むこと自体が“必要以上のことはやらない”と思え、我慢ならなかった。

 

30歳そこそこにもかかわらず、人生の大先輩に対して「仕事とは〜」「人生とは〜」と熱く語る僕は明らかに浮いていた。次々に出す新しい企画・提案。頭で理解できても、ズブのド素人の目線で色々言われるのが、ベテラン社員からすると我慢ならなかったと思う。

 

今思えば、当時のベテラン社員には申し訳無かったと思う。60歳を超え、再雇用で、現役時より給料も下がった状態でも一生懸命仕事をするベテラン社員。猛烈に仕事をさせようと思う事自体がおかしいと今ならわかるけれど、当時はそれがわからなかった。

 

頑張りすぎてベテラン社員とはよくぶつかった。20年、30年も同じメンバーで同じ仕事をしてきた人に、変わってくれと頼む事はとても難しかった。「なんでわかってくれないんだ!」と泣く事もよくあった。朝のラジオ体操すら一緒にしてくれないベテラン社員に、土下座して「一緒にラジオ体操やってくれ!」とお願いする事もあった。

 

働いているベテラン社員は決してやる気がない訳ではなかった。ただ、いきなり変化をさせようと考える事に戸惑いがあっただけだったと思う。皆、昔から知り合いの近所のおっちゃん達。僕が小さな頃から見ていてくれた事もあって、熱心に行動し少しずつ結果を出す事で想いが伝わる事も出てきた。また父や弟がフォローしてくれていたのも大きかった。

 

みんなの協力もあって、営業で大きい仕事をいただけるようになったり、新しい取引先が増えたり、できないと言われていた”透かし和紙”製造の一部の内製化を成功させられたりしたおかげで、なんとか黒字化に成功した。

 

しばらくすると、働き方や組織の在り方に対しても考え方が変わって来た。

 

これまでの社会人経験で、効率・生産性を追求し、管理を厳しくするが故に疲弊していく組織を目の当たりにして、美濃でなら、和紙でなら、自分も社員も楽しいと思える理想の組織が作り上げられると思った。

 

 

これまでのベンチャーでの働き方と違い、定時で帰る事や土日祝日をしっかり休む事自体が、この会社の長所であると気が付いた。細かい管理をする企業とは違い、最低限の管理だけで後はスタッフに任せる。それは、今まで僕が経験し、不条理だと思っていた現代的な管理型組織の否定でもあった。

 

そもそも、会社の歴史を紐解くと、創業した祖父は「人間らしい生活を守る」事を大切にし、同業他社が行ったような24時間の大量生産モデルには舵を切らなかった。人を機械にするようなマニュアル化・しくみ化で生産性を上げるのではなく、逆に人の個性を活かした事によって、小規模ながら生き残る事ができてきたのだ。

 

初めて、ものづくり業界に身を置いてみて感じた事は、この業界は、在庫管理や業務管理を細かくしすぎるために管理業務それ自体が増えているのではないかという事。

それに対して僕たちは、「管理のための社員を余計に抱えるくらいなら、失敗しても社員に判断を任せた方がいい」「物理的な損失は一時的でも、人件費は継続的なもの」という考えで、管理をこれまで以上に増やさなかった。

 

有給100%消化・5時定時をキッチリ守らせ、評価制度もなく、年功序列で給与を増やし、笑顔が溢れる職場。24時間生産が主流の業界の中で「よくやっているよね」と不思議がられる事もあるけれど、それも社員1人1人の人間らしい生活を守るようにした結果でしかない。社員1人1人も責任を持ってよくやってくれている。

 

それでも、衰退産業である和紙の業界。売って売れる訳ではないことなんてわかっていた。国内外へ営業に出たとしても費用対効果が薄い事は明白だった。それならば“美濃市を売って美濃市に来てもらえばいい!”という事で、美濃市全体を盛り上げる事に力を入れ始めた。FacebookなどSNSでの情報発信もそのひとつだ。

 

美濃は高山や北陸への通り道。人口2万人の小さい町ではあるけれど、うだつの上がる街並みを中心に歴史のある街。可能性はあると思った。まずは自社で、facebookで工場見学会の案内を始めると、直接和紙に興味がない人まで興味を持ってくれた。僕らが毎日当たり前のように見ている工場を、お客様は面白いと言って喜んでくれた。それを僕らの会社だけではなく、同業種・異業種含め、地元の他の会社の人を巻き込んで、美濃市全体に注目を集める事で、お金だけではない喜びが広がっていく手応えを感じられるようになった。

 

前職で学んだ自由な発想の企画力。どこから何が繋がるかはわからないけれど、みんなが喜ぶ事を続けたら、今までになかったような新しい繋がりが広がっていく。美濃を盛り上げる事を考えて、誰かに喜んでもらう事を考えて顔を繋ぐことで、いつのまにか縁が広がって、美濃にある友達みんなが潤うようになる。

 

地域のみんなと仲良くなって、みんなと喜びを分かち合えるようになって、僕はいつのまにか、和紙の事も、美濃の事も、どうしたら盛り上がるのか?具体的な構想がどんどん沸くようになった。

 

僕たちが目指す理想の未来

そんな僕たちが新たに創った経営使命は「美濃と和紙を元氣にする会社」。

 

「元氣とは何か?」それはつまり自立する事。何かに依存している状態だからこそ不安定になる。何かを期待してしまっているから、得体の知れない不安が付いて回る。短期的利益を追求する今までの形では苦しくなる。個人も会社も社会も、不安の根源はそこにあると考えた。

 

自立する事で、不安がなくなる。不安がなくなれば元氣になる。そういう価値観を会社として体現したい。そう決意して今動いている事が、人間らしく幸せな循環型の新しい地域経済モデルづくり。それは必要最小限の食料とエネルギーを自分たちだけで作れるようにする事。

 

元々、美濃で和紙が盛んになった原点は農業。農閑期に行っていた手すき和紙が今の形になっただけ。衣食住の中で、一番身近なはずの食について無関心な人が多いけれど、有事が起きるとお金は紙切れになる。農業で食べ物さえまかなえていれば、どんな時でも自立できる。

 

そのために、今後取り組もうと しているのが、田んぼも畑も自分たちでやっていく事。そして電力も自分たちで賄えるように「みの市民エネルギー」という地域電力会社も立ち上げる。また、ほとんど美濃以外からの購入で成り立っている和紙の原料の楮(こうぞ)の畑を作ること。それはまさに次世代型の兼業農家で僕は現代百姓。

 

経済至上主義の社会を経験し、美濃に戻ってきて、資本主義の限界が来ているのがよくわかる。企業なら増収増益を目指せと言う人もいるけれど、みんなが増収増益なんてしてしまえば、社会は成り立たない。生存競争に巻き込まれて無くなっていく会社があるからこそ、伸びる会社がでてくる。それで社会は回っている。本当にそれでいいのだろうか?

 

これから生き残る会社とは、地球や地域に必要とされる会社だと思う。決して増収増益の会社ではない。今の製紙会社は、海外からチップを輸入してパルプにして、煙を出して排水を流す。だから環境にとってよくない事をしている。地球規模で必要とされる和紙メーカーになろうと思ったら、地元の間伐材を使って、森を守り、排水処理をしっかりして、むしろ川を綺麗にする会社になる事。電気も自然エネルギーで賄う事ができるようになれば、地球や地域に必要な会社にできる。そうなれば自然と会社も残っていくはず。企業とは社会をよくする為の装置であり、法人とは公的な人の事。だから公の為の仕事をしないといけない。

 

僕は美濃を日本の縮図と考えている。そこで循環型の新しい経済モデルを構築できれば、そのモデルを真似したいと全国に広がっていく。それが人間らしく幸せな社会に繋がっていくはず。

 

これは僕の代だけでは達成できない事。経済至上主義で相手を叩き潰すような価値観はもう僕の代で終わり始めている。成長社会を終え成熟社会に移った日本の中で、これまでキレイ事と思われた事を大切にしながら仕事ができるようシフトチェンジをして次の代に渡す事が僕の役割。

 

そのためには、まだまだいろんな人の力が必要だ。特に新しい価値観を持つ若者の力がもっと出て来てほしい。

 

昔は僕もそうだったように、若い時から地元が大好きなんて感じる必要はない。ドンドン外に出たらいい。外に出るからこそ地元の良さがわかる。そんな人たちに「ぜひ美濃に帰って来たい!」と思ってもらえるような基盤をなんとしてでも作って行きたい。1300年の歴史を持つ美濃和紙の故郷を、1000年先の未来まで残す為に!