組織、家族、友達でも、
誰かのためにと頑張りすぎてしまう人は多い。
「自分が本当にやりたい事は何なのか?」
「自分が自分に何をしてあげたら喜ぶか?」
それがわかっていない人ほど、
自分より誰かを優先させてしまう傾向にあるような気がする。
イライラは
「こんなにやってあげているんだから・・・」
と見返りを期待する事から生まれる。
それは「自分のために」を犠牲にして、
「誰かのため」を優先させるほど
頑張りすぎてしまった事による弊害。
プレゼントが喜ばれなくても、
八つ当たりをされたとしても、
自分がただ「与える事」に喜びを感じていたら、
イライラなんてしない。
孫を「目に入れても痛くない」と思えるのは、
まさにその境地なんだと思う。
自分が喜ぶ事をして、
相手も喜ぶというのが一番だけれど、
そうならない事も結構ある。
その度に心を痛めていたら大変。
特に感受性が強い人ほど毎日苦しくなってしまう。
「嫌われたくないのにしてあげている」というのが余計なお世話で、
「嫌われてもいいからしたくてしている」というのがお節介。
お節介を焼いている認識があるのなら、
別にイライラなんてしない。
イライラしたくないのなら、
自分の喜びを、結果や人の反応に依存させない事。
「人の役に立つ事が自分の喜び」と言う人はいるけれど、
「相手の役に立てなければ自分が喜べない」という状況は結構不安定。
自己完結型でできる自分の喜びの先に、
結果として人の役に立つ状況を作る事を考えた方が、
無理なく自然に長続きして、
より一層、人の役に立つ事ができる。
ケーキは1人で食べるよりも、
みんなで食べた方が嬉しいのと同じように、
自分の喜びが溢れた先に向かう先は、
喜びを分かち合う事。
自分が笑顔になるだけじゃなくて、
みんなが笑顔になった方が嬉しいし楽しい。
だからまずは自分の喜びから。
その後に喜びをシェアするくらいの方がうまくいきやすいはず。
人は何もしなくても、
ただ側にいるだけで案外人の役に立っている。
急に連絡が取れなくなったり、
組織を離れたら悲しむ人がいるという事は、
組織にいて連絡が取れる状態にあるだけで喜びを与えているという事。
死んだら悲しむ人がいるという事は、
生きているだけで誰かに喜びを与えているという事。
ただ側にいてくれるだけでいいのに、
ただ話を聞いてくれるだけでいいのに、
「もっともっと」と頑張りすぎてしまう事で、
相手を苦しめる事もある。
目の前に見える課題に対して、
すべての人がそれを改善したいと思っていると思うのは勘違い。
「逃げたい」と思うのがきっと普通。
例えば私は、
綺麗な字が書けないけれど、
「なんでもっと丁寧に書かないの?」
「ペン習字を1週間練習するだけで上手になるのに。」
と言われたとしたら、それは余計なお世話だと思ってしまう。
やりたい事ができていない人がいたとしても、
人間関係がうまくいっていない人がいたとしても、
本人が本当にそれを改善したいと思っているかどうかは別問題。
「もっとこうすればうまくいく」
というアドバイスは望まれた時にすればいいもの。
アドバイスをする際は、
アドバイスが欲しいかどうかを聞いてから伝えるくらいがきっと丁度いい。
課題は本人がそれを改善していく過程を楽しむもの。
まわりの人が課題に気が付いたからといって、
無理に改善しようとさせなくてもいい。
それぞれが自分のペースできっと大丈夫。
失敗する事が悪い事だとは限らない。
目の前に見える課題を改善するために、
自分を犠牲にしてまで、
誰かのために頑張りすぎている人が多いように見える社会。
自分を犠牲にして苦しんでまで手に入れたいと思っているものは、
意外に大したものではない事が多いような気がする。
それが本当に必要であれば、
頑張りすぎなくても、
もっと自然にうまくいくようにできているはず。
ゆるく楽しくで大丈夫。
まずは自分から。
社会実験的にやっていきます!