その商品・サービスが高価であるかどうかと、
それを買って幸福感を得られるかどうかは別物。
なぜなら、商品・サービスの値段は、
その本質的な価値で決まっているのではなく、
その稀少生で決まっているから。
高価なものだったからといって、
それが本当に自分にとって大切なもの・好きなものであるか
はまったく関係ない。
逆に、自分にとって身近なもの・お金のほとんどかからないものの方が、
傾向として、大切なもの・好きなものである事が多いような気がする。
実際、本当のお金持ちほど、
意外に質素な暮らしをしている。
お金持ちは、
毎日高級なスポーツカーに乗って、
毎日豪華な食事を食べているように思えるかもしれない。
しかし実際、
高級なスポーツカーは日常的な移動・買い物には不便だし、
毎日豪華と言われるような食事をしていたら体を壊す。
広くて豪華な家も、
たいてい人を招いて喜んでもらうためにあるだけで、
自分が住む事だけを考えるなら、
広すぎる家は逆に不便。
掃除が好きな人は、
お金があっても家事をお手伝いさんに任せたりしないし、
料理が好きな人は、
自分で食材を買って自分で料理を作る。
お金・時間がたくさんあるからといって、
豪華な海外旅行ばかりに行く訳でもなく、
大切な友人や家族との何気ない団欒の時間を大切にする。
ステレオタイプ的なお金持ちのイメージ通りの
暮らしをしている人がいるとしたら、
それは急にお金持ちになった一部の成金的な成功者だけ。
例えばもし、すべての食べ物の値段が一品100円になったとしたら、
最初は今まであまり食べられなかったステーキ・伊勢海老などを
たくさん食べたくなるかもしれないけれど、
そういうものはたまに食べるから美味しいだけ。
最終的に毎日食べるものは、
白米に味噌汁のような、
何気ないものに落ち着くようにできているはず。
今、多く流通して安く売られているものは、
多くの需要があるからたくさん作られて流通して安くなっている。
今、あまり流通しておらずに高く売られているものは、
多少のタイムラグ・技術革新の遅れがあるにせよ、
需要が少ないからこそ、あまり作られず高くなっているだけ。
値段が高い事と、本質的な価値があるかどうかはまったく関係ない。
もっと言えば、
自分にとって本当に大切なもの・好きなものは、
もうすでに自分のお金・時間をかけて
手に入るように動いてきたからこそ、
すでに身近にある。
無意識的に、
値段が高いものはいいものだと、
たくさんお金を使うからこそ幸せが手にはいるんだと、
資本主義的なマーケティング戦略に踊らされている人は多い。
自分の心の満足に従って生きようとすればするほど、
自由であろうとすればするほど、
昔ながらの何気ないもの・家庭的なサービスの価値に気が付く。
いつかはそこに戻るようにできているような気がする。
どんな高級レストランで豪華料理を食べるよりも、
どんな高級ホテルで過ごすよりも、
毎日過ごすなら、慣れ親しんだ家の方が気楽で落ち着く。
高いスーツ・ドレスを着て肩肘張って過ごすパーティーもたまにはいいけれど、
家に集まって、ほとんどお金を使わずに、
みんなでワイワイする事だって楽しい。
何気ない料理を食べながら、
家族・友人と過ごす何気ない時間が
とても幸せだと感じられるはず。
来たい時に来て、帰りたい時に自由に帰る。
食べたい人は食べて、飲みたい人は飲んで、話したい人は話して、寝たい人は寝る。
歌いたい人は歌い、踊りたい人は踊る。
そこにある自由で自然な感じはとても心地よい。
ある意味カオスではあるけれど、
それが人間らしくて調和しているように感じられる。
安くて身近なものほど、
レアではないけれど、本質的な価値がある。
それはそうなるように、
ご先祖様達が、多くの人達が、
作り上げてきてくれたもの。
ないものに踊らされて、
既にあるものの素晴らしさを
忘れてしまっていてはもったいない。
お金に振り回されて、
身近で大切なもの・好きなものを
見失わないようにしていきたいです。