何を言うかよりも、誰が言うかが大事と言われるけれど、
ある意味これが、
社会を作るベースになっているのかもしれない。
誠実そうな人が言った「愛してる」と、
チャラそうな人が言った「愛してる」のとらえられ方は違う。
同じ言葉でも、
頭の良さそうな人が言えば「正しそうな事」になるし、
頭の悪そうな人が言えば「間違っていそうな事」になる。
商売においても同じ。
本当に良いモノかどうかなんて、
買う時点ではよくわからない。
良いかどうかではなく、良さそうかどうか。
そのイメージで人は商品・サービスを選ぶ。
本当の事を100%伝えるなんて事はできなくて、
すべてなんとなく伝わったイメージで人は動かされている。
よく考えれば、言葉だって曖昧にできている。
「美味しい」ってどんな味ですか?
「素晴らしい」って何ですか?
「安い」って何円以下ですか?
よく使われるような言葉でさえ、
そうかどうかの境目をまともに説明できない。
またわかりやすく伝えたところで、
それがどうとらえられるかは相手次第。
「昨年対比120%の売上を目指す!」
というわかりやすい目標を掲げたところで、
目標達成のためにどうすべきかと前向きにとらえる社員もいれば、
どうやって目標から逃げたらいいか後ろ向きにとらえる社員もいる。
「社長また言ってるよ」と本気にしない社員や、
「現場の事をわかってない!」とイライラする社員だっているかもしれない。
現実には、目標の意味も内容もあまり関係なくて、
上司に認められたいから、叱られたくないから、
言われた事を頑張ったフリをするだけの社員が多いような気がする。
曖昧な言葉を使って、
曖昧なイメージを伝えるコミニュケーション。
すれ違いが出るのは必然。
もしかすると、社会は思った以上に
適当でデタラメにできているのかもしれない。
成長する事、豊かになる事、やりたい事をやる事。
こんな良さそうな事でさえ、
力のありそうな人、成功してそうな人、幸せそうな人の発信の影響で、
それが良い事のように思えるだけ。
慎ましく生きる事が良い事とされていた時代もあったし、
足るを知り、スローライフで生きる事がいいと思う人もいる。
やるかやらないか、どちらを選ぶか、
正しい選択なんてわからない。
正しいという概念は、
短期か長期かで変わるし、
時代背景によってもその判断基準自体が変ってしまうため、
どう判断していいか、
専門家でさえわからなくなってきている。
ただわかるのは、その行動をして起こりそうな現象。
それがわかったところで結局、
正しいかどうかの判断なんてできないんだから、
深く考え過ぎて不安になる方がバカバカしい。
正しい事なんてなくて、あるのはそこに自分が納得するかどうか。
直感でも理屈でもいい。
自分の選択に後悔しないだけの意味や理由を、
自分の中に見いだせるかどうかだけのような気がするのです。